前章の問い — 制度はいつから機能したのか

第5章の終わりに、労働史研究者の二村一夫の反論を置きました。 1942年の重要事業場労務管理令が年功賃金を全国に広めたのは事実である。 しかし1945年から47年にかけて、千数百万人が職を求めて動き、物価が数十倍になる状況で、 その制度が実際に作動していたと言えるのか——という問いです。

そこで本シリーズは、こう書きました。制度は戦時に作られた。しかしそれは戦時に機能せず、敗戦直後にも機能しなかった。 では、いつから機能したのか。

この章が扱うのは、その答えの前半です。 1945年8月15日から1952年4月28日まで、6年8か月。 この間に、財閥本社が解散し、株式が強制的に売り出され、 経営者が総入れ替えになり、労働組合が670万人を組織し、 そしてそのほとんどが、1950年代前半には別の形に落ち着きます。

本章の主題を先に言います。壊すつもりだったものが残り、作るつもりだったものが消えました。

GHQは日本企業に明確な設計図を持っていました。 持株会社を禁止し、株式を個人に分散させ、株式市場から資金を調達させ、 買収の脅威によって経営を規律する——アメリカ型の株式会社です。 そしてその設計図は、一度だけ、ほぼ実現しました。1949年度、個人株主が上場株式の69.1%を持っています。 東京証券取引所が「株式分布状況調査」を始めて以来、この数字は一度も更新されていません。

しかし6年後には53.2%に落ち、1960年には46.3%になります。 代わりに増えたのは金融機関でした。9.9%(1949年度)から30.6%(1960年度)へ。GHQが最も嫌ったはずの「銀行が産業を支配する構造」が、 GHQの改革のあとに生まれています。

なぜそうなったのか。本章はそれを、①資本と所有 ②組織と統治 ③雇用と人事の3レイヤーで追います。 そして、財閥解体をめぐる通説——「不徹底だった」「財閥家族は没落した」「日本の高度成長の前提を作った」——を、 一次資料と実証研究で一つずつ検証します。

占領期の年表 — 6年8か月で何が起きたか

解体は日本側の自主案から始まった

9月6日、米国の「降伏後における米国の初期対日方針」が「産業上及金融上の大企業結合の解体計画を支持すべきこと」を明記。10月15日、安田保善社が自社解散・一族の役員辞任・株式公開を自主決定する(安田プラン)。11月4日に日本政府がこれを基礎とする案をGHQへ提出し、11月6日にマッカーサーが承認、SCAPIN-244「持株会社の解体に関する覚書」が出る。政府は声明で一貫して「解体」ではなく「改組」の語を使った。11月23日、制限会社令(勅令第657号)。同年末から東京・大阪で証券の集団取引が始まる(取引所の立会は8月10日以来停止)。12月22日、労働組合法(法律第51号)公布。

整理委員会・組合の爆発・新旧勘定分離

2月17日、金融緊急措置令(新円切替・預金封鎖)。3月1日に労働組合法施行——この1か月で3,297組合・103万人が生まれる。4月30日に経済同友会、8月16日に経済団体連合会が発足。持株会社整理委員会(HCLC)は4月に勅令で設置され、8月8日に業務開始。8月11日午前零時をもって新旧勘定分離の指定時とし、8月15日に会社経理応急措置法・金融機関経理応急措置法。9月6日、第1次指定5社(三井本社・三菱本社・住友本社・安田保善社・富士産業)。9月27日に労働関係調整法。10月8日、委員たちが三井・三菱本社に乗り込み、12億5,000万円分の株券を封印した木箱46個に詰め、トラック2台に憲兵の護衛付きで運び出した。10月19日、戦時補償特別措置法・金融機関再建整備法・企業再建整備法。12月27日、傾斜生産方式の閣議決定。

独禁法・集排法・そして商社の解体

1月18日、有価証券の処分の調整等に関する法律(法律第8号)で証券処理調整協議会(SCLC)が設置される。1月25日、復興金融金庫が開業。3月13日(3月22日説もある)、財閥家族10財閥56名を指定。3月28日、証券取引法(法律第22号)。4月7日、労働基準法(法律第49号)。4月14日、独占禁止法(法律第54号)——持株会社を全面禁止し、事業会社の株式保有を原則禁止した。7月1日、公正取引委員会が発足。7月3日付のGHQ覚書で三井物産・三菱商事に解散が指令される。7月4日、第1回経済白書(経済実相報告書)。11月29日、経団連が「証券民主化に関する意見」を発表。11月30日、職業安定法(法律第141号)。12月18日、過度経済力集中排除法(法律第207号)——会期末日、時計の針を止めて成立させた。

指定325社、そして半年で骨抜きに

1月6日、ロイヤル陸軍長官がサンフランシスコで「日本を共産主義に対する防壁にする」と演説。1月7日、財閥同族支配力排除法(法律第2号)。2月8日に鉱工業257社、2月22日に配給・サービス68社を集排法指定——計325社、払込資本金200億4,500万円は1947年末の全株式会社払込資本金の65.9%にあたる。だが4月にGHQが金融機関を指定しないと宣言、4月28日に集中排除審査委員会(DRB)を設置、5月1日にA級50社を「過度の集中ではない」と区分し5月4日に指定解除。8月28日、DRBが4原則を勧告して適用範囲を絞る。11月〜12月に取消指令が相次ぐ。4月12日、日本経営者団体連盟が「経営者よ正しく強かれ」を掲げて発足。7月22日のマッカーサー書簡を受けて7月31日に政令201号——公務員の争議権・団体交渉権が剥奪された。12月9日、極東委員会で米国がFEC-230を正式に撤回。12月18日、経済安定九原則。

個人株主69.1%、組織率55.8%、そして大量解雇

2月にドッジが来日、4月25日に1ドル=360円の単一為替レート。5月16日、東京・大阪・名古屋の証券取引所が売買立会を再開(東証の採用銘柄単純平均株価176円21銭が日経平均の起点)。この年度の個人株主比率69.1%は調査開始以来の最高値であり、金融機関9.9%・事業法人5.6%は最低値である。6月1日に労働組合法が全面改正(今度はGHQ主導の秘密立案だった)、同日に行政機関職員定員法が施行——国鉄は7月4日に3万700人、7月12日に第2次を通告し計9万5,000人。7月6日に下山事件、7月15日に三鷹事件。8月に株価が暴落し、上場453社のうち配当を実施したのは250社にとどまる。9月15日、シャウプ勧告。8月1日に王子製紙が3社に、9月1日に大日本麦酒が2社に分割。10月以降、SCLCは公開入札による旧財閥株の売却を無期限延期した。9月、持株会社整理委員会が三井・三菱・住友に商号・商標の使用禁止を通達。

株価は史上最安値、そして朝鮮戦争

1月11日、三菱重工業が東日本・中日本・西日本の3社に分割。1月21日、財閥商号の使用の禁止等に関する政令(政令第7号)。4月1日、日本製鐵が八幡製鐵・富士製鐵・日鐵汽船・播磨耐火煉瓦の4社に分割。4月3日、トヨタ自動車販売が設立され(資本金8,000万円、社長・神谷正太郎)、4月9日から労働争議、6月5日に豊田喜一郎社長が辞任、6月10日に争議終結——最終的に2,146人が退職した。6月6日、マッカーサー書簡で日本共産党中央委員24名を追放(レッドパージの起点、最終的に官公庁1,177人・民間1万972人)。6月25日、朝鮮戦争勃発。7月6日、東証修正平均株価が85円25銭——76年後の現在も日経平均の史上最安値である。10月から公職追放の解除が始まる。11月15日、最高裁大法廷が生産管理を違法と判示。

解除・復帰・そして社長会

6月、SCLCによる株式の売出しが完了(1947年6月開始、総額141億円)。7月10日、財閥家族の身分・財産上の制限が撤廃され、7月にSCAPが56名全員の指定を取り消す。7月11日、持株会社整理委員会が解散。同年、住友系の社長会「白水会」が10月に発足——旧財閥系3集団のうち最も早い。11月1日から読売新聞が「逆コース」と題する連載を開始する(この語の出所である)。11月までに公職追放は17万5,000余名が解除された。12月21日、財閥同族支配力排除法が廃止(法律第315号)。

講和条約発効 — そして名前が戻ってくる

5月7日、財閥商号の使用禁止政令が廃止(法律第137号)。三菱重工業の3社が5月〜6月に新三菱重工業・三菱造船・三菱日本重工業へ改称し、光和実業が「三菱商事」の商号に復する。12月1日に大阪銀行が住友銀行へ復称(千代田銀行→三菱銀行は1953年7月、帝国銀行→三井銀行は1954年1月。ただし安田銀行から改称した富士銀行は、二度と安田に戻らなかった)。同年、陽和不動産の株式買占め事件が起き、三菱グループが戦後初めて再結集して全株を買い戻す——株式持ち合いの嚆矢とされる。そしてこの年、占領期を通じて最大の労働損失日数1,507万日が記録された。占領が終わった年である。

レイヤー① 資本と所有 — 設計図と、できあがったもの

GHQは4点セットで設計していた

財閥解体を「財閥をバラバラにした」とだけ理解すると、この章の面白さが全部消えます。 GHQが持っていたのは、互いに補完しあう4つの制度の組み合わせでした。 宮島英昭の整理(世界銀行EDIワーキングペーパー94-52、1994年)に沿って並べます。

GHQが設計した制度具体的な措置ねらい
① 個人中心の分散所有持株会社整理委員会(HCLC)が接収した株式を、従業員・地元住民へ優先的に売り出す内部からの統制。株主が経営を見る
② エクイティ・ファイナンス1948年改正証券取引法の第65条で銀行の証券業務を原則禁止企業は銀行ではなく市場から資金を取る
③ 会社支配権市場による外部規律株式の流通市場を再建(1949年5月16日、東証再開)経営が悪ければ買収される、という圧力
④ 大株主の排除独占禁止法(1947)で持株会社を全面禁止・事業会社の株式保有を原則禁止、金融機関は5%上限。勅令567号は10%超保有株主の役員辞任を求めた支配株主を作らせない

4つは互いを支えています。 大株主を排除しても資金の出し手が必要だから、②で市場に調達させる。 分散した株主は個々には無力だから、③の買収圧力で規律を代替する。一つでも欠けると全体が崩れる設計でした。

そして実際には、ほぼ全部が崩れます。

接収の現場 — 木箱46個、トラック2台、憲兵の護衛

まず、何がどれだけ取り上げられたのかを確認します。

項目数値
持株会社の指定5次にわたり計83社(1946年9月6日に5社、12月7日に40社、12月28日に20社、1947年3月15日に2社、9月26日に16社)
第1次指定5社三井本社・三菱本社・住友本社・安田保善社・富士産業(旧中島飛行機)
指定83社のうち解散した社数42社(三井文庫)/31社(宮島1994)。数え方により差がある
財閥家族の指定10財閥56名(1947年3月13日。3月22日とする資料もある)
HCLCへ移管された株式(財閥解体分)90億円=経済全体の資本の21%
他機関の処分を含めた総額144億円=払込資本の34%(大蔵省1986、宮島1994が引用)
旧財閥系企業の株式放出比率上位127社中、旧財閥系62社は発行済株式の平均約50%(単純平均44.6%)を放出。独立系65社は7.2%

1946年10月8日、HCLCの委員たちが東京の三井本社・三菱本社に乗り込みます。封印した木箱46個に12億5,000万円分の株券・社債券を詰め、 トラック2台に積み、憲兵の武装護衛付きで隣の日本勧業銀行へ運び込みました。その後3週間で住友・安田・中島飛行機の分も接収されます。

そして売り出しの順序が決められました。①発行会社の従業員 → ②支店・工場所在地の地元住民 → ③ブローカー経由の一般公開 → ④残余は公開入札。「証券民主化」と呼ばれた運動です。

項目数値
証券処理調整協議会(SCLC)の根拠法有価証券の処分の調整等に関する法律(1947年1月18日 法律第8号
売出しの期間1947年6月開始、1951年6月完了。141億円の半分以上が1949年に売れた
SCLCが販売を任された総額141億円(処分対象の総計は184億円。1945年末の国内株式総額437億円の約4割)
買い手の内訳(1950年3月までの調べ)従業員38.5%、入札23.3%、売り出し27.7%
分散した人数15万人の従業員・地域住民

1949年度、個人69.1% — これは「民主化の達成」ではない

結果として現れた数字が、これです。

所有者別持株比率の推移(出典: 宮島英昭 1994, Table 10-6。原資料は日本銀行 1970。1949年以降の値は東証『株式分布状況調査』表8と一致する)

普通、この折れ線は「戦後、株式が民主化され、その後だんだん法人化した」と読まれます。ですが1949年度の数字を横に並べると、別のものが見えます。

1949年度の値数値東証の長期系列における位置
個人・その他69.1%調査開始以来の最高値(最低は2017年度の21.0%)
金融機関9.9%最低値
事業法人等5.6%最低値
証券会社12.6%最高値
政府・地方公共団体2.8%(翌1950年度の3.1%が最高)——

つまり1949年度は、個人が最も株を持っていた年であると同時に、 安定株主が最も少なかった年です。 金融機関も事業法人も、この年より少なかったことは一度もない。 この組み合わせが示すのは達成ではなく、脆さの極大でした。

そして証券会社の12.6%が意味するのは、売れ残りの在庫です。 個人に配りきれなかった株が、証券会社の手元に滞留していました。

従業員は株を売った。そして株価は半値以下になった

設計の①(個人による分散所有)が崩れる過程は、 SCLC自身の調査に記録が残っています。

  • 1948年1月〜1949年6月に株を買った従業員のうち、2年以上保有し続けたのは約50%
  • SCLCのサンプル調査で「値上がりすれば売る/売る」と答えた者が計24.1%、「持ち続ける」が50.8%
  • 同じ調査で「従業員が株主になれば生産・業務効率が上がると思うか」に対し、「変わらない」32.6%、「下がる」1.9%

SCLCの文書はこう書いています。

disposition of stocks to employees may have a different result from what had originally been designed(従業員への株式処分は、当初設計されたものとは異なる結果をもたらしうる)

(Securities Coordinating Liquidation Committee 文書。宮島英昭 1994 が引用)

なぜ売ったのか。株価が落ちたからです。

日付東証の平均株価状況
1949年5月16日176円21銭(採用銘柄単純平均)東証・大証・名証が売買立会を再開。日経平均の起点
1949年8月〜暴落ドッジ・ラインによる引き締め、特別経理会社の増資がSCLCと買い手を奪い合う、低配当(上場453社中、配当実施は250社)
1950年7月6日85円25銭(修正平均)算出開始以来の安値。76年後の現在も日経平均の史上最安値である

再開から14か月で半値以下。そして放出株の過半(141億円の半分以上)が売れたのは、その直前の1949年でした。「証券民主化」で株を買った人は、ほぼ全員が損をしています。これが「個人は株から離れる」という戦後日本の長期トレンドの原体験になりました。

財界は、放出が始まったその年に受け皿問題を見抜いていた

面白いのは、この帰結が放出のただ中で予告されていたことです。 経済団体連合会が1947年11月29日に発表した「証券民主化に関する意見」を読むと、 財界が何を心配していたかがそのまま書いてあります。

株式大衆化問題は、いま以上のような重要な地位を占めている。それにも拘らず、国民が株式投資を忌避すること今日の如く甚しきはない。

なお株式の大衆化は、株価が低落すれば自ら需要を喚起し、その目的を達し得るとの説をなすものがあるが、 実際においては、株価が不当に低落すればするだけ大衆は不安人気に襲われて、投資を躊躇するものであることは、 過去の長い歴史の証明するところである。事実、株価の異常低落は、過去においては、 大衆投資層の不安に乗じ少数大資本の独占化を誘致するのが常であったのである。

(経済団体連合会「証券民主化に関する意見」昭和22年11月29日)

そして具体的な対策として、こう要求しています。

第五、臨時証券金庫(仮称)の設置に関する事項企業の再編成と民主化を促進し、尨大なる株式流出の圧迫を調整し、証券の流通を円滑ならしめ、 且つインフレーションを抑圧する構想の下に、証券を一時所得保有する公的機関を設置すること

(同上)

「株を一時的に抱え込む公的機関を作れ」。これは1964年に日本共同証券・日本証券保有組合として実現するものの、17年前の先取りです。 「持ち合いは1950年代に自然発生した」という説明は、 少なくとも財界の意図の水準では、1947年まで遡ります。

財閥は解体された。財閥銀行は解体されなかった

ここが本章でもっとも重い一点です。

過度経済力集中排除法の第4条は、指定を1948年9月30日までに行うと定めていました。 ところが持株会社整理委員会は、期限まで7か月を残して325社で指定を打ち切っています。 なぜか。

おそらくこの後に、金融機関の指定を検討していたのであろう。 しかし、1948年4月にGHQは金融機関を指定しないことを宣言することで実施されなかった。

(大石邦弘「過度経済力集中排除法とビール産業」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』58巻3号、2022年、15頁)

つまり銀行は「最初から対象外」だったのではありません。指定の検討途上で、GHQの一言によって外れました。除外の条件は「厳重に監督すること、健全な銀行活動をさせること」でした。

結果として何が起きたかを、金融史研究者の飛田紀男はこう書いています。

占領下の諸改革は、戦時特別金融機関を中心に金融制度にも及んだが、大雑把にいえば、 戦後経済の再建と復興の軸として銀行の役割が重視され、普通銀行は占領軍から制度上殆ど変更を受けなかった。 また急速な経済復興の過程で大銀行は日銀借入金に依存しながら増加する産業資金をまかなったため、 軒並みオーバー・ローンに陥り、日銀、銀行の威力が高まったことは隠れもない事実であった。 また銀行の基礎が戦後の新体制に適合するように固まらないうちに、外面的に急膨張して産業支配の様相を呈しはじめた、という面もあった。

(飛田紀男「終戦直後の金融・銀行」『豊橋創造大学紀要』第8号、2004年)

解体の非対称。資本の司令塔(持株会社)は消され、資金の結節点(銀行)は残った。 第5章で見た軍需融資指定金融機関制度が「原則として1軍需会社1行」で銀行と企業を紐づけた構造は、 解体されないまま、より強い形で戻ってきます。

そして、GHQの設計図の正反対ができあがった

買収の脅威は、設計では③(外部規律)として企業を律するはずでした。 実際に起きたのは逆です。

大正海上の株式買占め

安定株主を持たない企業が標的になる。宮島英昭が指摘するのは、狙われたのが業績不振企業ではなかったことである——増資が抑制されていたため時価が資産の再売却価値を大幅に下回っていた企業、とくに不動産会社が対象になった。

陽和不動産・関東不動産の買占め

陽和不動産(旧三菱地所系。資本金が小さく莫大な含み益を持つ不動産を保有していた)を藤綱久二郎が35%まで買い占める。三菱グループが戦後初めて再結集し、全株を最高値で買い取った。「株式持ち合いのはしり」と評される。この収拾を主導したのが、公職追放を解除されて復帰した元三菱銀行頭取・加藤武男である。

白木屋事件

横井英樹が175万株を取得。発端は、発行済400万株のうち80万株(20%)を保有していた山一証券が、五島慶太(東急)に株式譲渡と経営参加を打診したことだった。1949年度の証券会社保有比率12.6%という史上最高値が、そのまま乗っ取りの弾薬になっている。

独占禁止法の緩和

1949年改正で事業会社の株式保有禁止(第10条)が緩められ、1953年改正で金融機関の議決権保有上限が第11条により5%から10%へ引き上げられた(1977年改正で10%→5%に戻される)。講和条約発効に伴い勅令567号も廃止され、旧財閥系企業間の相互持ち合いが可能になった。

GHQと日本政府自身が方針を転換した

1949年10月以降、SCLCは公開入札による旧財閥株の売却を無期限に延期する。それに先立つ4月、大蔵省は個人・従業員優先の原則を放棄すると表明していた。放出を止めたのは、放出を命じた側だった。

そして経営陣が取った手段は、宮島の整理では3つでした。(a) 証券会社に名義を貸させて自社株を持たせる(購入資金は会社が出す)。 (b) 社外の個人に非公式契約で持たせる。 (c) 預金と引き換えに金融機関に持たせる。

「有力企業30社の大株主」の構成を3年間隔で並べると、何が起きたかが一目でわかります。

1949年(千株)1952年(千株)
証券会社 24,007証券会社 33,585
持株会社整理委員会 18,322生命保険 29,381
生命保険会社 9,615銀行 21,933
持株会社 4,337信託 19,464
閉鎖機関整理委員会 4,124事業法人 15,473
大蔵大臣 1,581外国人・法人 7,175
個人 1,508損害保険 6,796
銀行 1,288個人 479

3年で、個人が1,508から479へ。銀行が1,288から21,933へ。銀行は17倍になっています。

graph TD
  P["GHQの設計(1946-48)"]
  R["実際に成立(1950年代半ば)"]
  P1["個人中心の分散所有<br/>+従業員持株"]
  P2["エクイティ・ファイナンス<br/>証取法65条で銀行を排除"]
  P3["会社支配権市場による規律"]
  P4["大株主の排除"]
  R1["法人中心の所有<br/>株式相互持ち合い"]
  R2["系列融資による負債調達"]
  R3["メインバンクの委任モニタリング"]

  P --> P1
  P --> P2
  P --> P3
  P --> P4
  R --> R1
  R --> R2
  R --> R3
  P1 -.->|"株価暴落・従業員は売却"| R1
  P2 -.->|"内部留保の毀損・借入依存"| R2
  P3 -.->|"買占めへの防衛"| R3

  style P fill:#2563eb,stroke:#1d4ed8,color:#fff
  style R fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
GHQが設計した制度セットと、1950年代半ばに実際に成立した制度セット。4つの要素は互いに補完的だったため、一つが崩れると全体が反対側へ倒れた。宮島英昭は「1950年代半ばに現れたコーポレート・ガバナンス構造は、GHQが当初意図したものとはまったく異なっていた。それは銀行中心の企業集団システムだった」と総括する。

1954年時点の相互持ち合い比率は、三菱(23社)14.8%、住友(12社)15.8%、三井(20社)7.9%、古河(10社)20.9%。 まだ低い。本格化するのは1950年代後半から高度成長期であり、 それは第7章の主題になります。

企業の自己資本が壊された — 新旧勘定分離という下地

株式が売れなかった理由は、株価だけではありません。そもそも企業の財務が壊れていました。そして壊したのは、日本政府自身の処理です。

年月日措置内容
1946年8月11日 午前零時新旧勘定分離の指定時特別経理会社は打切り決算を行い、勘定を新旧に分離。民需向け事業に必要な資産を新勘定へ、それ以外を旧勘定へ移し、旧勘定は特別損失が確定するまで棚上げされた
1946年8月15日会社経理応急措置法(法律第7号)/金融機関経理応急措置法(法律第6号)上記の枠組みを定める
1946年10月19日戦時補償特別措置法(法律第38号)戦時補償請求権に100%の戦時補償特別税を課し、実質的に打ち切った
同日金融機関再建整備法(法律第39号)/企業再建整備法(法律第40号)打切りによる損失の処理手続きを定める

この処理が企業金融に何をしたかを、日本銀行が自らの正史ではっきり書いています。

封鎖預金の分離に伴い法人預金の大半が第2封鎖預金に繰り入れられ、 事業資金の調達はもっぱら金融機関借入れに依存せざるをえなくなったからである。

(日本銀行『日本銀行百年史』第5巻、66頁)

1946年8月末の全国銀行の第1封鎖預金残高は534億円、第2封鎖預金は287億円。 そしてこの第2封鎖預金は、1948年3月末の金融機関再建整備の最終処理でかなりの部分が切り捨てられました。企業は自分の預金を失い、借りるしかなくなった。

なぜ銀行界がこの処理に猛反対したかも、数字で見ると分かります。 1946年3月末、全国銀行の貸出1,110億円のうち、 軍需融資・指定融資が362億円、戦争保険関係融資が375億円——合計737億円、貸出の3分の2が戦時融資でした。 全国銀行協会が「政府補償が全面的に打切らるる場合に於ては経済界を混乱に陥らしめ産業の再建は不可能となり」と訴えたのは、 他人事ではなく自分の資産の話です。

日本銀行はこの100%課税をめぐる政府とGHQの折衝を「占領期には異例のはげしい応酬」と記しています。 政府の方針は「与えるものは与える」が「取るものは取る」でした。

財閥家族は没落したのか — 落としたのはGHQではなく日本政府だった

ここで、比較的新しい研究が通説を揺らしています。 Steven J. Ericson(ダートマス大学)の2021年の論文です。

標準的な説明は「財閥家族は資産を没収され、ほぼ困窮状態に落ちた」ですが、 Ericsonは資産を減らした主因が財閥解体ではなく、日本政府自身の1946年財産税だったと論じます。

財閥家族(家数)課税財産財産税実効税率残存
三井(11家)3億5,645万1,814円3億0,676万1,825円86%4,968万9,989円
岩崎=三菱(10家)1億6,163万3,404円1億3,564万1,588円84%2,599万1,816円
住友(4家)1億2,981万5,797円1億1,366万9,216円88%1,614万6,580円
古河(1家)3,820万1,600円3,299万7,440円86%520万4,160円
安田(10家)1,485万8,800円922万1,511円62%563万7,289円
10大財閥 計(48家族)7億3,971万60円6億2,554万3,455円85%1億1,416万6,604円

財産税は1946年3月3日時点で純資産10万円超の個人に課され、税率は10%から90%の累進でした。 しかも大蔵省は個人ではなく世帯単位で課税し、各構成員に按分するという、より過酷な運用をしています。最大の課税対象者だった住友吉左衛門は89%を失いました。

一方、HCLCに譲渡した証券には相応の補償が支払われました。 当初の計画は「3%の非流通・譲渡不能・10年間担保不適格の公債」でしたが、HCLC専務理事(後に委員長)の野田岩次郎が 「では家族はどうやって食べるのか。米国の納税者が財閥世帯を支えることになる」と主張してGHQを説得し、 1947年6月9日に政府がHCLC令を改正、補償を現金払いに切り替えています。

popular opinion tends to be that zaibatsu assets were confiscated, butwe as members of the HCLC persuaded SCAP to give the zaibatsu proper compensation in cash.(財閥の資産は没収されたと思われがちだが、我々HCLCの委員がSCAPを説得して、財閥に現金で正当な補償を行わせたのである。)

(野田岩次郎の回想。Steven J. Ericson, "The Wealth of Zaibatsu Owner Families," Shashi 6-1, 2021 が引用)

財閥持株会社株の払込資本金額純補償額
三井6億3,000万円12億円
三菱3億4,000万円5億5,000万円
住友2億6,000万円4億6,000万円
安田1億4,500万円9,000万円

Ericsonの結論はこうです。「没収的な措置は、GHQ主導の財閥解体による家族資産の接収というより、 むしろ日本政府自身の懲罰的な財産税だった」。そして「解体を執行したのは日本側の機関であり、その機関は改革の意図を部分的に骨抜きにした」と論じます。

集中排除は失敗したのか — 分母を変えると答えが変わる

325社を指定して、分割したのは11社

「財閥解体は不徹底だった」という評価の最大の根拠が、この数字です。

段階内容
1947年12月18日過度経済力集中排除法(法律第207号)公布。時限立法で、1949年6月30日失効の予定
1948年2月8日鉱工業部門257社を第1次指定(同時に公示第1号「手続規則」・公示第2号「基準」を発出)
1948年2月22日配給業・サービス業部門68社を第2次指定
指定合計325社。払込資本金200億4,500万円
1948年5月1日GHQ渉外局がA級50社(過度の集中ではない)・B級18社・C級126社・未分類100社に区分
1948年5月4日A級50社を指定解除
1948年8月28日DRB(集中排除審査委員会)が4原則を勧告。適用範囲が大幅に絞られる
1948年11月〜12月BC級への決定指定に取消指令が相次ぐ
最終結果整備計画が実行されたのは18社、実際に企業分割まで至ったのは11社

持株会社整理委員会が1951年に発表した総括は、 実施した当事者自身のものとしては、かなり歯切れが悪いものです。

……実際に機構上の再編成を要するに至ったものは11社にすぎない。 集中排除法の実施の結果につき期待はずれの感をもつ向はあっても、 それは本法の背景をなした状況の変化にもよろうが、さらにまたわれわれはここで再び 法の運用に広範囲の幅をもたせている英米法体系にいまだ不慣れなわが国の世論が 集中排除の議論の紛糾に拍車をかけたということを想起せざるを得ない。

(持株会社整理委員会『日本財閥とその解体』1951年。旧字体を新字体に改めた)

「期待はずれ」と認めつつ、原因を「状況の変化」と「英米法に不慣れな世論」に帰しています。実施主体自身による釈明です。

払込資本金ベースなら、33.3%に措置が及んでいた

ところが、同じ委員会の資料から別の計算ができます。社数ではなく払込資本金を分母にすると、答えが変わります。

対象払込資本金指定325社の総払込資本金に占める比率
集排法で措置された18社43億6,166.1万円21.8%
持株会社として措置された51社のうち、集排法措置の9社を除き第2会社を設立した15社23億0,557.8万円11.5%
合計66億6,723.9万円33.3%(3分の1)

財閥解体という目標からみれば、この15社も効果に含めてもよくはなかろうか。 そうであるなら、325社総払込資本金の33.3%、つまり3分の1にはなんらかの措置が行われた。 この点で再評価するなら、一連の施策は十分に日本経済の過度経済力を除去したといえよう。

(大石邦弘、前掲論文、19頁)

「11 ÷ 325 = 3.4%だから失敗」という通説は、社数という分母を使っています。企業の大きさは社数で測るものではないので、この分母には理由がありません。 資本金で測れば3分の1です。

麒麟麦酒は34ページの説明書を書いて生き残り、大日本麦酒は1枚で済ませて割られた

制度の運用が企業側の対応力にどれだけ左右されたかを、 もっとも具体的に示すのがビール産業の事例です。大日本麦酒と麒麟麦酒は、同じ1948年2月8日に集排法指定を受けています。

日付大日本麦酒麒麟麦酒
1948年2月8日指定第16号指定第68号
1948年3月9日基準に関する説明書 — わずか1枚(項目4・5は「該当なし」の1行)同説明書 — 34ページの大部
1948年7月3日——決定指令
1948年11月22日事実の認定/再編成計画書に対する指令案——
1948年12月14日聴聞会——
1948年12月17日——指定取消指令
1949年1月7日決定指令——
1949年9月1日解散。日本麦酒・朝日麦酒の2社が発足無傷

麒麟が書いた34ページの中身は、業界の需給構造の分析でした。

以上の結果を総合すれば麦酒醸造業界には大体二割程度[ママ]の供給能力の余剰が常に存在すると言い得るものであり、全国供給能力の二割程度の割合を占める会社の存否は現実の需給にはさしたる影響を与えないと一般的に結論しうる。

(麒麟麦酒『説明書』14頁、1948年3月9日提出)

「うちが消えても市場は変わらない、だから独占ではない」という論証です。 一方、大日本麦酒の1枚の説明書は、自社の2社分割を前提として 「麒麟との3社体制ならほぼ同規模で自由競争になり消費者利益が大きい」と書いていました。これ以上の分割は拒否する、という姿勢が透けています。

結果として生まれた市場は、こうです。

ビール市場シェアの変化(出典: 大石邦弘 2022。典拠は公正取引委員会調査部編『日本における経済力集中の実態』1951年、199-202頁)

63.6%対28.9%の2社体制が、38.5%対25.8%対25.7%のほぼ均等な3社体制になりました。制度が意図した通りの結果に見えます。

ただし、その後がまた面白い。分割されなかった麒麟が伸び、分割された朝日麦酒は落ちます。1963年に朝日は24.3%で業界3位、1987年には9.6%まで沈み、 同じ年に発売したスーパードライで反転して1998年にキリンを抜き45年ぶりの首位に立ちました。制度が意図した「均等な3社競争」は、40年遅れで実現したとも読めます。

分割から再合併まで、何年かかったか

集排法という「割る制度」がどれだけ持続したかは、割られた企業がいつ戻ったかで測るのが一番わかりやすい。

企業分割再合併経過備考
三菱商事1947年7月3日(GHQ覚書で解散指令)1954年7月1日約7年光和実業(1950年4月1日設立)が1952年に商号復帰し、不二商事・東京貿易・東西交易を吸収。分裂社数は174社/160社以上/百数十社と諸説ある
三井物産1947年7月3日(覚書)/11月に解散1959年2月16日約12年第一物産(1947年7月25日設立)を軸に大合同。三菱商事より4年遅い。旧社員が興した会社は200社以上
三菱重工業1950年1月11日(東・中・西日本重工業)1964年6月約14年5か月再統合の理由は製品群の重複と二重投資。「財閥の再来」という非難も出た
日本製鐵1950年4月1日(八幡・富士・日鐵汽船・播磨耐火煉瓦)1970年3月31日約20年公正取引委員会の同意審決(1969年10月30日)を経て成立
王子製紙1949年8月1日(苫小牧・十條・本州)1996年10月(旧苫小牧系+旧本州のみ)約47年1968年3月に3社再合併を発表したが、公取委の否認を恐れて同年9月に事前審査を取り下げ、断念。旧十條は日本製紙として今も別会社
大日本麦酒1949年9月1日(日本麦酒・朝日麦酒)再合併せず77年(2026年現在)サッポロとアサヒは今も別会社
大建産業1949年(伊藤忠・丸紅ほか)再合併せず——伊藤忠商事と丸紅は今も別会社
帝国銀行1948年9月23日(第一銀行を分離)再合併せず——三井銀行と第一銀行は二度と一緒にならなかった

この表から3つのことが読めます。

  • 軽い会社ほど早く戻る。商社(人と信用が資産)は7〜12年、重工業(設備と技術)は14〜20年、素材・消費財は戻らないか半世紀かかった
  • 戻れるかどうかを決めたのは公正取引委員会だった。鉄鋼は1969年に同意審決を勝ち取って合併し、製紙は1968年に審査を取り下げて断念している。同じ時期に正反対の結果になった。集排法という「割る制度」は数年で終わったが、独禁法という「戻さない制度」は今も生きている
  • 分割の効果は40年後に現れることがある。アサヒとサッポロは戻らないまま、1998年にアサヒがキリンを抜いた

名前が消えた3年間

解体は商号と商標にも及びました。ただし法令の姿は少し複雑です。

銀行が先に改称した(商号禁止令より前)

住友銀行→大阪銀行(10月1日)、三菱銀行→千代田銀行、安田銀行→富士銀行。これらは後述の商号使用禁止令とは別のルート(持株会社整理委員会による個別指定と、財閥色を薄めるための自主的判断)である。なお帝国銀行が第一銀行を分離したのは1948年9月23日で、これは集排法とも無関係で、戦時中の三井銀行+第一銀行の合併に対する行内の分離要望に端を発する。富士銀行の商号は京浜地区の行員によるアンケート投票で「国民」「共立」「日本商業」などの候補から選ばれた。

持株会社整理委員会が通達

GHQの指示を受け、三井・三菱・住友の各社に商号・商標・会社標章の使用禁止を通達。対象は三井の「丸に井桁三」、三菱の「スリーダイヤ」、住友の「井桁」の商標と、三井・三菱・住友を冠する商号。三井15社、三菱19社、住友10社が対象とされた。

政令第7号として法令化

「財閥商号の使用の禁止等に関する政令」(昭和25年政令第7号)。三井生命保険は中央生命保険へ、三井信託は東京信託銀行へ、三井農林は日東農林へ改称した。

廃止(法律第137号)

サンフランシスコ講和条約の発効(4月28日)に伴い、ポツダム命令の措置に関する法律により廃止。三井広報委員会は「財閥商号の使用禁止等に関する政令は遂に廃止されたのである」と記す。三菱重工業の3社は1952年5月〜6月に「三菱」を冠する商号へ戻り、光和実業は「三菱商事」に復した。

ただし戻るまでには時間がかかった

大阪銀行→住友銀行が1952年12月1日、千代田銀行→三菱銀行が1953年7月、帝国銀行→三井銀行が1954年1月。三井系の事業会社は1956年に「三井商号商標保全会」を組織してから復帰が進んだ。政令廃止から4年かかっている。

レイヤー② 組織と統治 — 司令塔が消えたあと、誰が決めたのか

122社中112社で、トップが交代した

第3章で見た持株会社は、直系100%・傍系5〜56%という二層構造で財閥を支配する装置でした。 第5章では、その頂点にいた同族と本社の上に国家が乗りました。この章では、その全部がいなくなります。

経営者が入れ替わった規模は、宮島英昭が鉱工業上位127社を追跡した研究で定量化されています。

指標数値
大企業122社のうちトップが交代した企業112社(91.8%)
10大財閥の子会社社長のみならず役員全員が辞任
新経営陣の出自ほぼ全員が社内昇進。社外からの招聘はわずか4例
技術者資格を持つ元工場長出身の社長122社中56社(1937年は98社中21社)
新社長のうち戦前に社長・副社長・専務の経験を持つ者122名中16名
経営経験がまったくない者26名
残る80名戦争末期から直後に「平取締役」だった者

制度の側も確認しておきます。追放の数字は、制度ごとに分けないと必ず混乱します。

制度対象・人数出典
公職追放全体(1948年5月まで)20万3,660人。うち軍人が約16万7,000人(約8割)国立国会図書館「史料にみる日本の近代」
経済パージ(1947年1月4日 勅令第1号による範囲拡大)民間企業1,335名+政府系企業631名約1,966名T. A. Bisson, "The Economic Purge in Japan," 1953
財閥同族支配力排除法(1948年1月7日 法律第2号)の対象役員3,489名(うち既に公職追放済み848名、適用除外691名)GHQ/SCAP History of the Nonmilitary Activities, vol.24
同法により実際に辞任を強制された者2,798名同上
追放解除1950年10月から開始、1951年11月までに17万5,000余名国立国会図書館

技術者が社長になった — 21.4%から45.9%へ

この入れ替えがもたらした最も持続的な変化は、社長の出身が変わったことかもしれません。

大企業社長に占める技術者出身者の比率(出典: 宮島英昭 1994。1937年は98社中21社、占領後は122社中56社)

2倍以上です。第2章で見た「社長ノ特裁」の三菱、第3章で見た同族支配の財閥、 第4章で見た「正員の採用権すら持たない分系会社」—— そこにいたのは家族と、家族が選んだ番頭でした。 それが、工場から上がってきた技術者に置き換わります。

「日本企業がエンジニア主導のものづくり企業になった」という特徴を、 この数字に起源として求める議論があります。ただし本章は、そこから「だから成長した」とは書きません。後述する理由によります。

森川英正が『会社四季報』から主要業種の最大企業の社長の出自を追った調査は、 この変化をもう一つの角度から捉えています。内部昇進型の専門経営者は1930年時点で43社中3社(7.0%)にすぎなかったのが、 1955年には56社中35社(62.5%)に達しました。森川はこれを「明治維新後における近代日本経営史の流れを貫く赤い一本の糸は、専門経営者の進出と制覇の過程でした」と総括し、 戦後を「完全に『経営者企業の時代』」と呼びます。

三菱電機では、労働組合が社長を選んだ

ここが本章でもっとも意外な事実です。誰がこの人事を承認したのか。

宮島が挙げる例です。三菱電機では追放後、元工場長と三菱銀行出身者の2候補を役員会が立て、 労働組合にどちらが適切かを諮り、組合が前者(元工場長)を選びました。昭和電工では、森社長が創業家の縁者であることを理由にHCLCから辞任を求められています。

In short, the half-stock of ex-zaibatsu companies was held by a quasi-government agency and their financial decisions... were completely restricted by government...they were in some ways similar to state-owned or nationalized companies.

(要するに、旧財閥系企業の株式の半分は準政府機関に保有され、財務上の決定は政府によって完全に制限されていた。 ある意味で、それらは国有化された企業に似ていた。)

(Hideaki Miyajima, World Bank EDI Working Paper No. 94-52, 1994)

占領期の一時期、経営者を選ぶ実質的な権限は、株主でも取締役会でもなく、 労働組合と占領機関にありました。第2章から第5章まで一貫して問い続けてきた「誰が意思決定したか」に、 この数年間だけ、まったく異質な答えが入ります。

「三等重役」は蔑称ではなく、統計的事実だった

源氏鶏太の小説『三等重役』は、1951年から52年にかけて『サンデー毎日』に連載され、 1952年に東宝で映画化されました(森繁久彌の人気でシリーズ化されています)。 意味は「公職追放で一・二流の重役が去った後、社内から繰り上がった三流の重役」。流行語になりました。

宮島の数字(新社長122名中、社長・副社長・専務の経験者はわずか16名、経営経験ゼロが26名、 残り80名は平取締役)が、この言葉のリアリティを裏づけています。 そして当時の当事者の記録は、もっと生々しい。

新しい社長は多くは社内の年長の平取締役と云ふ事に自然になつて来るのは止むを得ない。 年長の取締役と云ふと大概は住友王国盛んな時に進級の遅れた、云はば能力が劣るとか 何等かの失敗があつた者とか或は又上司に受けが悪かつた者とかに属する。 大概の場合同期に入社した優秀者は社長や専務となつて居るが、追放を免れて新に社長になつた者には 取残されて居たが、年功序列で平取締役であった者が多い

(山本一雄『住友本社経営史』。菊地浩之「六大企業集団の社長会について」が引用)

住友本社の首脳部から見れば、新社長たちは「たまたま運良くトップに就いただけ」でした。 実際、新社長は五人委員会(旧本社系の長老組織)から正統性を問われ続け、 1952年11月には住友銀行頭取・鈴木剛が五人委員会の意向で退任し、副頭取・堀田庄三が昇格しています。

企業総会 — 実現しなかったもう一つの日本企業

司令塔が消えた空白に、誰を座らせるか。この時期、日本側から最も急進的な答えが出ています。

経済同友会は1946年4月30日に発足しました。 経団連(1946年8月16日、対政府)や日経連(1948年4月12日、対労働)と違い、経営者が「個人として」参加するのが特徴です。 1947年1月に大塚万丈(日本特殊鋼管社長)を委員長とする経済民主化委員会が発足し、 同年に『企業民主化試案 — 修正資本主義の構想』を発表します。

企業民主化試案(1947年)の三本柱
① 企業は経営・資本・労働の三者で構成される協同体である
② 企業の最高意思決定機関として「企業総会」を置き、経営・資本・労働の三者代表で構成する(=株主総会に代わる)
③ 企業利潤の分配について三者が対等の権利を有する

株主総会を廃止し、労働者代表を最高意思決定機関に入れる。これを経営者団体が提案しています。

結末は、あっけない。 「あまりにもラディカルであったため、財界の保守派から資本主義の否定につながると批判を浴び」、 同友会は「機関決定しない」という形で事態を収拾しました。 ただし「修正資本主義」は流行語になり、労使協調路線が同友会に定着します。 そして大塚が代表幹事を退いた1948年4月、対労働に特化した日経連が発足しました。

興味深いのは、「従業員主権」的な発想がGHQ側と日本側の双方にあったことです。 GHQは従業員持株を推し、商工省も同様の提案をしていました。 そして宮島は、経営者の側にもその傾向があったと指摘します。

the new top management team of big businesses, composed of salaried managers promoted within companies,had a potential tendency to represent their employee's interests.

(社内昇進の俸給経営者から成る大企業の新経営陣は、従業員の利益を代表する潜在的な傾向を持っていた。)

(Miyajima 1994)

社外取締役が消え、株主が分散して無力化し、経営者が全員社内昇進になった。この配置で「誰の利益を代表するか」と問えば、答えは従業員になります。伊丹敬之の「人本主義企業」(1987年)や青木昌彦の企業理論(1984年)が 日本企業を「株主と従業員が組織準レントの分配に参加する協同体」として描いたのは、 この配置の記述でもあります。

社長会は「財閥の復活」か

そして1950年代、旧財閥系の企業が社長会という形で集まり始めます。 「財閥が復活した」と言われる根拠ですが、成立の実態を見ると、話はもっと複雑です。

社長会集団正式発足前身性格
白水会住友1951年10月1949年頃から春秋2回の懇親会旧財閥系で最も早い。輪番制の幹事、代理不可、事務局・議事録なし、全員一致という平等主義
三菱金曜会三菱1954年1946年6月に三菱協議会を解散して「金曜午餐会」へ改組トップが明確に規定され、グループ間の調整について裁量権限を持った
二木会三井1961年10月1950年2月「月曜会」(常務以上の懇親会)→1955年「十五社会」→1959年「五日会」三井銀行の佐藤喜一郎が結集に否定的で、その退任を待つ必要があった
芙蓉会富士銀行1966年1月1960年「企画部長会」6社、1964年「芙蓉懇談会」25社血縁によらない初の本格社長会
三水会三和銀行1967年(結成時23社)実質的な前身なし「トップの懇親会の域を出なかった」
三金会第一勧銀1978年1月20日(45社)1970年「勧銀系十五社会」、1966年「古河・川崎合同委員会」「単なる懇親会に終始」

菊地浩之(日本証券経済研究所『証券経済研究』2000年)が示したのは、「6大企業集団」と一括りにされるものが、実は二種類あったということです。

旧財閥系(三菱・三井・住友)銀行系(芙蓉・三和・第一勧銀)
発足時期1951〜1961年(占領終結の前後)1966〜1978年(高度成長期の後半)
結集の核旧財閥本社の人的紐帯+商号・商標+社是銀行の融資関係のみ
前身世話人会・親睦会(1946年〜)なし(銀行が主導して組成)
メンバーの決まり方「ほぼ三大財閥のメンバーを引き継いで成立した。メンバーは最初からほぼ定まっていた」(菊地)「血縁や親密度よりも資産規模やネームバリューによって選定された」(菊地)

旧財閥系企業集団の社長会メンバーは、「ほぼ三大財閥のメンバーを引き継いで成立した。メンバーは最初からほぼ定まっていたのである」。 このことは、社長会が株主安定化など特定の目的のために、機能的に結成されたものではないことを示唆している。

(菊地浩之「六大企業集団の社長会について(下)」『証券経済研究』第25号、2000年5月)

さらに菊地が指摘するのは、3集団の性格の違いが「終戦直後に主導権を握った人物の立ち位置」で決まったということです。

集団主導した人物視点帰結
三菱石黒俊夫(三菱本社代表清算人)解体される本社側から傘下企業を見る。自立しようとする傘下企業をいかに束ねるか金曜会はトップが明確に規定され、調整の裁量権限を持った
住友土井正治(住友化学工業社長)傘下企業の立場から解体される財閥を眺める。連携を保ちつつどう自立するか白水会は輪番制・全員一致の平等主義
三井佐藤喜一郎(帝国銀行頭取・三井銀行社長)銀行の公共性と合理的性格からグループ結集には否定的社長会の結成は佐藤の現役退任を待った(1961年)

三菱金曜会は1965年7月の決議で 「三菱系各社間に於て、業務執行上や企業計画等で意見の相違を来し、当事者のみではその一致を見ぬ場合には、 当事者の申出又は世話人の裁量により其の解決策を策定し斡旋する」と定めています。 菊地は「社長会のトップに関する権限を明確に定めた事例は、他の社長会では類を見ない」と評します。

一方、当事者側の公式見解は明確な否定です。

金曜会は、単なる親睦会であり、グループの意思決定機関ではありません。 各社は資本的にも人的にも独立しており、金曜会が各社の経営に関与することはありません。

(三菱広報委員会)

「株式相互持ち合い」は、実は相互に持ち合っていない

「財閥が企業集団として復活した」という説明の柱は、株式の相互持ち合いです。 ところが菊地浩之が1950年代の株主名簿を洗い直すと、通説を支える数字が出てきません。

グループ1951年の持ち合い比率1956年(上位40位株主で集計)
三菱2.27%(23件)15.23%。ただし金曜会に加盟していない明治生命・東京海上を除くと8.87%
住友0.29%(わずか3件)16.10%
三井2.15%(30件)7.43%
浅野——1.37%(上場4件のみ。非上場を含めても)

住友が実質的に社長会を作った1949年、正式に白水会を発足させた1951年の時点で、 住友グループの株式持ち合いは3件・0.29%しかありませんでした。「持ち合い比率の動向が社長会結成のタイミングを決めた」という説明は、住友では成り立ちません。

さらに、1956年の三菱の内訳を分解すると、15.88%のうち9.83%は金融機関による事業会社の保有で、 事業会社同士は3.69%にすぎません。菊地の指摘は容赦がない。

事業会社間で互いに1%以上持ち合っているケースは……4件である。 換言するなら、事業会社17社間で相互に1%以上持ち合っているのは4件にしか過ぎないのだ。株式持ち合いはしばしば『株式相互持ち合い』と表現されるが、厳密には相互に持ち合っていないことがわかる

(菊地浩之『1950年代における旧財閥系企業の株式所有構造』政治経済研究所、2011年)

そして、もう一つの逆説があります。社長会がメンバー企業の社長を実際に更迭した事例は、持ち合いがほぼゼロだった時期に集中しています。菊地が確認できたのは1952年の三菱日本重工業と1955年の住友機械工業のわずか2件で、1952年の三菱日本重工業の更迭時、グループ各社の持株比率は10%未満でした。 逆に持ち合いが数十%に達した1970年代(三菱油化の社長追放)や1990年代(住商事件)には、 社長会は有効な手を打てていません。

社長会メンバーの株式持ち合い比率は1970年代まで上昇の一途をたどっているが、年々、社長会の支配力は低下している。 むしろ、株式持ち合い比率が未発達だった1950年代初頭の方が、メンバーに対して果断な処置をとっていたように思われる

(菊地浩之「六大企業集団の社長会について(下)」『証券経済研究』第25号、2000年)

つまり1950年代の企業集団を動かしていたのは、株式所有ではなかったということになります。 菊地が挙げる代替の要因は、①メインバンクの融資圧力と、②財閥期に形成された属人的な関係(長老の影響力)です。

本章の判断はこうです。持株会社という「所有による支配の装置」は復活していません。 1954年時点の相互持ち合い比率は三菱14.8%・住友15.8%・三井7.9%で、 第3章で見た三井合名の直系100%・傍系5〜56%とは桁が違います。 戻ってきたのは支配ではなく、人的紐帯と名前でした。 ただし「単なる親睦会」で済むかというと、三菱の1965年決議のように調整の裁量権限を明文化した例もあるので、集団によって濃淡があります。

レイヤー③ 雇用と人事 — 身分が消え、雇用は不安定だった

労組法が施行された月に、3,297組合・103万人が生まれた

第5章で、1940年に日本労働総同盟が自主解散し、 大日本産業報国会が全国約26,000の単位組織を持ったことを見ました。 その世界が、どれだけの速度でひっくり返ったか。

年月結成組合数結成組合員数月末現在の組合数月末現在の組合員数
1945年9月21,07721,077
1945年10月73,99595,072
1945年11月6663,4587568,530
1945年12月434312,147509385,677
1946年3月3,2971,031,361——2,568,513
1946年6月1,598298,78112,0073,681,017
1946年合計17,2874,255,88617,2654,849,329

労働組合法が施行された1946年3月の1か月間だけで、3,297組合・103万人。1946年5月1日にはメーデーが復活し、皇居前広場に50万人が集まりました。

組織率のピークは1949年の55.8%であって、1948年ではない

労働組合員数と推定組織率(各年6月30日現在。出典: 厚生労働省「労働組合基礎調査」時系列)

よく「1948年6月に33,926組合・約670万人・組織率55.8%でピーク」と書かれますが、これは組合数・組合員数(1948年)と組織率(1949年)を混ぜています。正確には、1948年6月末が53.0%、1949年6月末の55.8%が史上最高です。 組合数のピークも1949年(34,688)。

そして翌1950年に、組合員数は88万人減ります。レッドパージ、ドッジ・ライン下の企業整備、産別会議の崩壊が同時に来た年です。

製造業では、組合員の87.4%が工職混合組合に属していた

日本の企業別組合を特徴づけるのは「企業ごとに組織されている」ことよりも、「職員(ホワイトカラー)と工員(ブルーカラー)が同じ組合に入っている」ことです。 第5章で見た戦前の労働組合は、現場労働者だけの組織でした。

組合の種類組合員数(1948年6月末)構成比
職員組合1,426,425人21.8%
労務者組合1,015,398人15.5%
混合組合(工職混合)4,092,131人62.6%
合計6,533,954人100%
産業混合組合の比率
製造工業87.4%
ガス・電気・水道79.8%
運輸通信70.7%
金融業48.4%(職員組合が51.6%)
自由業(教育他)30.5%(職員組合が69.5%)

そして当時の観察者は、この現象をすぐに言葉にしています。

戦後の組合は、一言を以てすれば経営内的存在とも特徴化し得べきものを共通にしている

単位組合は殆んどすべてが企業体単位に結成されて居り、その結果また組合は、 労働者組合というよりは従業員組合という特質を与えられて居り、 更に組合員資格としても、課長、係長等職制上の責任者であって通念上〈使用者〉の利益を代表すると考えられる人々までを含むものが極めて多く…… このことは、戦後の労働組合においては、工員のみの組合の比率が著しく少なく、 大部分が所謂工職一本の〈混合組合〉でありその比率が80%をこえている、という事態の結果である。

(東京大学社会科学研究所編『戦後労働組合の実態』1950年、序章。大河内一男執筆)

工場の職工と事務所の職員とが一になって組合を作ろうとするのは勿論、アメリカならば問題なく組合に入ってはならない高級従業員までが一般従業員とともに一つの組合を組織しようとする。 そして、一般従業員もなるべく高級の従業員までも組合に入れようと、希望している

(末弘嚴太郎『日本労働組合運動史』1950年)

工職身分制の撤廃 — 「社員」という語が生まれた

なぜ工員と職員が同じ組合に入ったのか。 二村一夫の答えは、身分制の撤廃こそが労働者にとっての民主主義だったから、というものです。

敗戦と占領軍による民主化政策は、労働者の永年の不満をいっきよに爆発させました。民主主義が、労働者にとっては、何よりも経営内での身分制の撤廃の要求となったのも、当然のことでした。 大幅賃上げとともに、経営民主化は、生成期の戦後労働組合の中心目標でした。

(二村一夫「企業別組合の歴史的背景〈補訂版〉」)

戦前の身分差は、給与の形態だけでなく、建物の構造にまで及んでいました。

区分職員(社員)工員(職工)
給与形態月給制(「俸給」)日給制・時間給制(「賃金」)
昇給定期昇給あり不定期・恣意的(第4章でゴードンが「選別的・恣意的かつ不定期」と評したもの)
賞与・退職金ありなし、または少額
物理的な区別正門から入る/社員食堂/社員用便所通用門から入る/別の食堂/別の便所
採用学歴(大卒・専門学校卒)で採用現場採用

組合の要求は、この全部を並べて撤廃を求めるものでした。呼称を「社員」に統一すること。給与を月給制に統一すること。 食堂・出入口・更衣室・便所を統合すること。賞与・退職金を同一に適用すること。

日本語の「社員」は、商法・会社法では出資者を指す法律用語です。 それが日常語では従業員を意味するようになった。このズレは、占領期に工職身分制が撤廃され、全従業員が「社員」と呼ばれるようになったことに由来します。「正社員」という日本独特の概念——濱口桂一郎の言う「メンバーシップ型雇用」——の実質的な起点は、ここにあります。

1946年12月22日、「学歴、性別ニヨル不平等ナ取扱ハシナイ」

その身分制撤廃を、最も明確に賃金制度として表現したのが電産型賃金体系です。

日本電気産業労働組合協議会(電産協)は1946年4月7日、 日本発送電と全国9配電会社の従業員組合を結集して結成されました(組織人員9万5,000人)。産別会議の中核が、企業別組合の協議体だったのは、いま見ると皮肉です。

電産が1946年9月から要求し、100日間の争議を経て12月22日に妥結した賃金体系の構造は、こうです。

graph LR
  A["基準労働賃金"]
  B["基本賃金"]
  C["地域賃金"]
  D["生活保障給<br/>基本賃金の約8割"]
  E["能力給"]
  F["勤続給"]
  G["本人給<br/>年齢だけで決まる"]
  H["家族給<br/>扶養家族数で決まる"]

  A --> B
  A --> C
  B --> D
  B --> E
  B --> F
  D --> G
  D --> H

  style D fill:#2563eb,stroke:#1d4ed8,color:#fff
  style G fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
  style H fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
電産型賃金体系(1946年12月)の構造。生活保障給が基本賃金の約8割を占め、その中心である本人給は年齢だけで決まる。職務も学歴も職種も問わない設計であり、これが工職に同一適用された。生活保障給の根拠は2,400カロリーを基礎とする理論生計費だった。

中央労働委員会の第1次調停案(1946年11月5日)が示した金額です。 30歳・家族2名・25歳入社のモデルで見ます。

項目金額
本人給(年齢給)890円
家族給250円
能力給260円
勤続給100円
合計1,500円

同じモデルで、組合要求1,870円・会社案995円。約2倍の開きがありました。 当時の水準感としては、東芝の基本給が相当な年輩でも500円程度、 官公吏は350〜400円だったと当事者は証言しています。

そして協定書の文言が、この章でもっとも重い一文を含んでいます。

賃金ハ生活費ノ変動ニ応ジテスライドセシメル

賃金ニツイテハ資格階級制度並ニ学歴、性別ニヨル不平等ナ取扱ハシナイ

(電産と日本発送電・9配電会社の協定書、1946年12月22日。足立長太郎の証言による。『大原社会問題研究所雑誌』496号、2000年3月)

日本国憲法の施行は1947年5月3日です。その4か月以上前に、一つの労働協約が学歴と性別による賃金差別の禁止を明記していました。

家族給の出所は、戦時の国策だった — 当事者の証言

ここで第5章と接続します。 第5章では、家族手当・住宅手当が賃金統制令が手当を適用除外にしたことの抜け道として生まれ、 1940年の第二次賃金統制令が生活給の思想を国家の政策にしたことを見ました。 ただし、その生活給は戦時には実現しませんでした。

電産型賃金の設計に関わった足立長太郎(電産労組の常任中央執行委員、のち産別会議副議長)に、 1983年のインタビューで直接聞いた記録があります。

——電産型賃金の体系を構築するにあたって、なかでも生活保障給の額を導き出すにさいしては 従業員の生活実態調査を重ねたそうですね。

足立 ええ。家族給は、戦時中に国策として実施されていました。地域給(地域賃金)もあり、 さらに各種の『基準外労働賃金』もありましたしね。

(吉田健二編「電産10月闘争と電産型賃金——足立長太郎氏に聞く」『大原社会問題研究所雑誌』496号、2000年3月)

さらに足立は、理論的な「種本」まで指摘しています。

電産型賃金体系が発表されたとき、私はすぐに『家計の数学』を種本にしているな、と思いました。

最低生活の思想はナチスでも、日本でも行われた時期があったのです。 最低生活の思想はともかく、最低生活という論理が日本でもあの時期に確認されて、 電産型賃金における生活保障給の中に組み入れられたのです。

(同上。『家計の数学』は小倉金之助、1938年刊)

1938年に書かれた本の生活給の論理が、 戦後もっとも戦闘的な労働組合の賃金要求の理論的支柱になっていました。

ここに、第5章から持ち越した「迂回した連続」の完成形があります。

総同盟は、企業別組合を「迷妄」と呼んで打破しようとしていた

「企業別組合は日本の文化だから自然にそうなった」という説明を、 一次資料が正面から否定します。

一般従業員が会社別従業員組織の希望を有することは、遺憾ながら彼等の当面する事実である。われ等はこの迷蒙〔ママ、正しくは「迷妄」〕を打破しなければならないことはいうまでもないが、 この現実に即して同一資本系統の労組代表者会議、又は未組織工場を含む職場代表者会議を組織し、 未組織労働者の組織化、闘争の強化をはかるべく努力しなくてはならない。

(総同盟拡大中央準備委員会 決定、1946年1月17日。大河内一男編『資料戦後二十年史4 労働』日本評論社、1966年、12頁)

ナショナルセンター自身が、結成のわずか半年後に企業別組合を「迷妄」と呼び、 打破しようと決議していました。当事者は最初から自覚していて、否定しようとして、失敗しています。

この「発見」の瞬間は、統計の項目にも刻まれています。1946年の「労働組合設立解散統計」には「企業別」という調査項目がありませんでした。 ところが1947年の「労働組合調査」から、「企業別」が調査項目のトップに置かれます。

産業報国会は、そのまま組合になったのか

第5章で保留した論点に、ここで答えます。結論から言うと、決着していません。ただし材料は具体的です。

まず、「単位産報の看板を掛け替えただけの組合」の存在は、帝国議会で公式に認められています。

〔帝国議会〕財閥系の炭鉱、造船などで単位産業報国会の名を労働組合に変えて団体交渉をし、 一定の契約をしているものが見られるとの指摘がある。これは「過渡期ノ……例」と思われ、このことに政府が強権をもって資本家に臨むのではなく、 徐々に指導してゆく方法で、今後十分に注意をする積もりである

(衆議院労働組合法委員会 議事録 第一回 22頁、1945年12月。渡辺章「第一章 昭和20年労働組合法」JILPT国内労働情報14-05 が引用)

1945年12月の時点で、業種まで特定して指摘され、政府が事実として認めている。しかも「財閥系の炭鉱、造船」——本章の主題である財閥解体と同じ企業群です。

産報の解散が3段階だったことも、この文脈では重要です。

中央組織だけが解散した

厚生・内務両次官による各地方長官宛て依命通牒により、大日本産業報国会(および大日本労務報國会)を解散。ただし工場事業場ごとの「単位産報」は存続した。

厚生省は単位産報を温存する方針だった

労務法制審議委員会が開かれた1945年10月31日の時点でも単位産報は存続しており、厚生省は大日本産業報國会に替えて「財団法人日本勤労厚生会」(仮称)の設立準備を進め、そのために単位産報の組織を温存する方針だった(渡辺章の解題)。

GHQが解散対象に指定

GHQ極東小委員会「日本労働者組織の取扱いについて」(SFE-140)で、産業報国会が解散させるべき団体に指定される。

ようやく全産報の解散が指示される

政府が次官通牒(発労4号)で警視総監・地方長官等に宛て、すべての産業報国会を解散させるよう指示。渡辺章はこう付記する——「その日は、20年労組法案が帝国議会に提出された日でもある」。同じ日に古い器を壊し、新しい器を作った。

中央が9月30日、単位産報は12月8日。この2か月余りの空白期に、 単位産報を母体とした組合結成が進んだ——という因果の道筋は立ちます。 ただしこれは推論であり、全国的な規模での実証ではありません。

そして、連続説に対する強力な反証も同じ委員会の議事録にあります。 1945年10月31日、労務法制審議委員会の第2回総会で、 三井鉱山の深川委員が自社の産報活動を報告しました。

労働者30人当たり1人の「総代」を選挙し、「総代会」を構成させ、毎月必ず1回以上開催させる。戦後に生まれた企業別の労働組合組織(工場事業場別の工員・職員の混合組織)と異なり、 「職員」は参加していない。作業職労働者の合議機関である。

(渡辺章による深川委員報告の要約)

三井鉱山の単位産報には、職員が入っていませんでした。産報はブルーカラーの組織であり、戦後の企業別組合は工職混合です。 組織の単位(事業場別)は連続しているが、メンバーの範囲は連続していない。

ちなみに、同じ委員会で深川委員は経営側の戦後構想も語っています。

これからは「工場単位ニ……従業員ダケノ労働組合ニ致シマシテ 其ノ組合ヲ相手トシテ…… 懇談会ト云フモノヲハ毎月〔一〕回以上必ズヤッテ居リマスカラ、……常ニ宜シク接觸ヲ保ッテ懇談ヲシテ行キタイ

(労務法制審議委員会 第2回総会、1945年10月31日)

1945年10月の時点で、大企業の労務担当者が「工場単位・従業員だけの労働組合」を 当然の前提として構想していました。総同盟が「迷妄」と呼んで打破しようとしたものを、経営側は望んでいた。 この非対称が、日本の企業別労使関係の成立を説明する一つの補助線になります。

企業別組合の起源をめぐる学説の見取り図

提唱者・文献主張
出稼型論大河内一男(1950年代)賃労働が出稼型 → 横断的労働市場が形成されない → 組合も企業別になる
新大河内理論大河内一男(1959年3月に転換)大正後期〜昭和初期の労務政策で労働市場が企業別に分断・封鎖された。その上に戦後の企業別組合が成立した
系譜論小松隆二『企業別組合の生成』(1971年)戦前の労働組合組織に企業別組合の系譜を求める
工場委員会体制論兵藤釗『日本における労資関係の展開』(1971年)戦前の労資関係の限界として工場委員会体制を規定
産報継承説大河内一男「『産業報国会』の前と後と」(1971年)産報運動から戦後の組合活動に引き継がれた点を強調。大河内は産報運動の当事者の一人でもあった
断絶説(現在の通説)二村一夫「企業別組合の歴史的背景」(1984年)戦前と戦後の企業別組合は別物。根拠は戦後の組合にホワイトカラーが参加していること。労働市場論では工職混合を説明できない
連続説の再提起金子良事(2014年)二村の断絶説より、小松(1971)の連続説を引き受けるべき。企業別組合のルーツは戦前の総同盟の労働運動および会社組合にある

二村の反証のうち、本シリーズにとって重いのは第2点です。1945〜47年に労働市場が企業別に分断されていたはずがない—— 約700万人の徴兵、400万人規模の失業、700万人の復員、物価が10倍20倍30倍になる混乱。 この状況で、勤続年数に応じた賃金が人を引き留める力を持ちえたか。 第5章の末尾で置いた反論が、ここでも効いています。

そして二村は、問いの立て方そのものを反転させます。

私は、日本の労働組合がなぜ企業別になったかを問う前に、欧米の労働者はなぜ企業の枠をこえ結集したのかを問うべきだと考えています。 この方がよほど不思議で、なにか特殊な事情があったに相違ないと思います。

(二村一夫「企業別組合の歴史的背景〈補訂版〉」)

経営権はどこで守られたのか

生産管理闘争 — 所有権への直接の挑戦

財閥解体で所有が解体されるのと並行して、労働者の側からも所有権への挑戦が起きていました。

生産管理闘争とは、労働者が経営者を排除して自ら生産・販売を行い、 賃金を自分たちで支払う争議形態です。 1945年10月の第一次読売新聞争議が嚆矢で、 組合の闘争委員会のもとで編集・印刷・発行が行われました。 1945年12月の京成電鉄、1946年1月の第一次東芝争議、1946年2月の三菱美唄炭鉱と広がります。

何がどこまで行ったのか。エスカレーションの段階が記録されています。新聞における編集権など経営権の掌握、就業規則を無視した労務管理機構の掌握、 販売収入の管理、一方的な賃上げ、採用・解雇・生産品目変更の決定。

1946年2月の失敗と、6月の成功

政府は2度、生産管理を止めようとしました。1度目は失敗し、2度目は成功します。

日付措置結果
1946年2月1日四相声明(内務・司法・厚生・商工)で生産管理を違法な争議行為と規定労働組合・政党・新聞の反対に遭って撤回された。ただし本章の調査では、この声明を確認できたのは一部の資料にとどまり、原文は特定できていない
1946年6月13日「社会秩序保持に関する声明」で生産管理を禁止GHQの支持を得て成功。労働関係調整法(9月27日公布)の制定へつながる

4か月の間に何が変わったのか。GHQが支持したかどうかです。占領期の労使関係は、労働者と経営者の二者ではなく、GHQという第三のプレイヤーを入れないと説明できません。1945年10月の読売争議ではGHQの民間情報教育局が労働側を支持し、組合が勝ちました。 1946年6月の第二次読売争議では、GHQと政府の支援を得て会社側が勝ちます。同じ会社で、8か月のあいだに勝敗が入れ替わっています。

1950年11月15日、最高裁が「企業の利益と損失とは資本家に帰する」と宣言した

司法の決着は、下級審と最高裁で正反対でした。

近時、企業一般においては、所有と経営とが分離し、経営は専ら経営技術者、並に一般従業員である労働者によって 運営せられているのであるから労働者は企業内部の一担当者として、経営技術者及び出資者とともに、 企業全体を成立せしめているので、生産管理自体は適法な争議行為である

(山田鋼業吹田工場事件、大阪地裁 昭和22年11月22日判決)

ここには、経済同友会の企業民主化試案とほとんど同じ企業観があります。労働者は企業のメンバーである。

そして3年後、最高裁大法廷がこれを覆します。

わが国現行の法律秩序は私有財産制度を基幹として成り立っており、企業の利益と損失とは資本家に帰する。従って企業の経営、生産工程の指揮命令は、 資本家又はその代理人たる経営担当者の権限に属する。……従って労働者側が企業者側の私有財産の基幹を揺るがすような争議手段は許されない。 なるほど同盟罷業も財産権の侵害を生ずるけれども、それは労働力の給付が債務不履行となるに過ぎない。 然るに本件のようないわゆる生産管理に於ては、企業経営の権能を権利者の意思を排除して非権利者が行うのである。

(最高裁大法廷 昭和25年11月15日判決、刑集4巻11号)

労働法学者の濱口桂一郎はこれを「明確に資本主義的経済秩序(労働者は企業のメンバーではない)を宣言しました」と評します。

本章の中心的なアイロニーがここにあります。財閥解体で所有権は解体されました。 しかし最高裁は、その解体のただ中で 「企業の利益と損失とは資本家に帰する」と宣言し、経営権を守っています。

そして統計がそれを裏づけます。争議行為の形態別「その他」(業務管理を含む)の件数は、 1946年170件、1947年93件、1948年54件、1949年25件、1950年28件と減り続け、1951年に0件になります。最高裁判決の翌年です。

政令201号 — 2年半で、団結権の根拠が消えた

ここで、第5章から引いてきた法制の線がもう一度反転します。

1945年12月22日の労働組合法(法律第51号)第4条は、こう定めていました。

第四條 警察官吏、消防職員及監獄ニ於テ勤務スル者ハ勞働組合ヲ結成シ又ハ勞働組合ニ加入スルコトヲ得ズ

(昭和20年労働組合法。JILPT『労働組合法立法史料研究(解題篇)』所収の条文)

つまり警察・消防・監獄職員を除き、官吏の団結権は認められていました。その根拠が、2年半で消えます。

マッカーサー書簡

芦田均首相宛。公務員は「全体に奉仕する義務」があるから争議権・団体交渉権をはく奪すべきである、という内容。芦田内閣はこれを「単なる勧告ではなく、すべての法律に優先する命令」と解釈した。

政令201号 公布・即日施行

正式名称は「昭和二十三年七月二十二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」(昭和23年政令第201号)。国会に諮らずに実施された。当時の組織労働者の3分の1以上を占めた公務員の労働基本権が剥奪される。

国家公務員法改正/公共企業体労働関係法

公労法は昭和23年法律第257号(12月20日公布、施行は1949年7月)。以後、地方公務員法(1950年12月)、地方公営企業労働関係法(1952年7月)へと制度が整えられていく。

労組法をめぐるGHQの関与は、占領期に逆転している

そして、この章でもっとも意外な事実の一つがこれです。

労働組合法はその後の労調法などと違って、餘りアメリカの影響を受けていない。 ……法律の内容は聯合軍側の指導を受けることなしにきめられたのであって、 この點世間に多少誤解があるようだから、注意しておく。

(末弘嚴太郎『労働運動と労働組合法』大興社、1948年8月、54頁。末弘は労組法起草の中心人物である)

1945年の労働組合法は、厚生省に置かれた労務法制審議委員会(委員34名)が 1945年10月27日から11月21日まで5回の総会を開いて答申したものです。 最初のたたき台は末弘が10月31日に提出した意見書でした。衆議院・貴族院とも修正なしで成立しています。

ところが1949年6月1日の全面改正(法律第174号)は、正反対でした。

1945年 労働組合法1949年 改正労働組合法
立案の主導日本側(労務法制審議委員会、公開の総会5回)GHQ主導。1949年1月4日〜5日に3つの勧告が手交され、労働省労政局内部で秘密裡に検討
救済の方式刑事罰(6か月以下の禁固または500円以下の罰金)+労働委員会の先議権不当労働行為制度+労働委員会の救済命令
組合の自主性第2条但書で「利益代表者の参加」「主たる経費の使用者補助」を除外資格審査制度(第5条)として手続化。経費援助禁止を厳格化
解散命令あり(第15条)削除(GHQ勧告が「時代錯誤的」と評した)
文体文語体口語体

「アメリカの押し付け」の度合いが、占領期のあいだに逆転しています。組合を作らせるための法律は日本人が書き、 組合を統制するための法律はGHQが主導して秘密裡に書かれました。

なお、GHQの第1回勧告にはアメリカ型の排他的交渉代表制(交渉単位制)の導入が含まれ、 1949年2月13日の「労働省試案」として新聞発表までされています。ところが3月28日、GHQが突然「第8次案」を提示し、交渉単位制は姿を消しました(「法案転換」と呼ばれます)。 もしこれが通っていたら、日本の労使関係はまったく別の形になっていた可能性があります。

そして、終身雇用はどこにもなかった

1949年、組合の同意なしに解雇できるようになった

ここまで、身分制の撤廃と生活給の実現という「獲得」の側面を見てきました。同じ時期の雇用の実態は、正反対です。

第5章で見たとおり、戦時には労働移動そのものが禁止されていました。 占領期にはその逆で、企業は自由に解雇できます。しかも占領期の途中で、組合が獲得していた歯止めが一つ外れました。

1946〜47年に結ばれた労働協約の多くには、採用・解雇・就業規則の改正は組合の承認なしには実施できないとする「同意条項」が置かれていました。 末弘嚴太郎はこれを当時の労働協約の第一の特色に挙げ、 「組合の攻勢のもとで経営者の経営・人事に関する自由裁量は拘束された」と書いています。

ところが1945年の労働組合法には、協約の有効期間について 「三年ヲ超ユル有効期間ヲ定ムルコトヲ得ズ」という上限規定しかありませんでした。 そのため協約には「有効期間満了後といえども、新しい協約の成立につき当事者の協議ととのわざるかぎり、引きつづき有効に存続すべきものとする」という自動延長条項が広く置かれ、 組合が新協約を拒む限り、使用者は不利な協約から半永久的に抜けられませんでした。

1949年の労働組合法改正は、これを断ち切ります。

第15条第2項 労働協約は、その中に規定した期限が到来した時以後においてその当事者のいずれか一方の表示した意思に反して有効に存続することができない

(1949年6月1日 法律第174号による新設規定)

帰結は劇的でした。

これを機に経営側が協約更新拒否の戦術に出たため多くの職場で無協約状態が発生し、人事同意条項が無効となり組合の同意なくして解雇が可能となった。加えて、協約に根拠を持った経営協議会が消滅したため、労働組合は、生産・雇用などの問題について 情報を入手できず影響力を行使することが困難となった。こうした動向は、共産党・産別会議とその傘下の組合の影響力排除につながり、 以後、産業別連合体を形成する動きは弱まり、労使関係の重点が企業内に移る契機となった。

(草野隆彦『雇用システムの生成と変貌』JILPT資料シリーズNo.199-2、2018年、40頁)

そしてこれは、意図された結果だった可能性が高い。 同資料は、経済九原則の実施で大量解雇が不可避になることが予想され、「労働組合が人事条項を楯にして抵抗すれば、協約自動更新規定により解雇を強行できず、 経済9原則の実施に支障をきたすことがGHQ・政府において懸念された」と記しています。

解雇のための法改正だった、という読みが成り立ちます。そして実際、翌年から解雇が始まります。

1949年だけで、70万人以上が職を失った

対象人数根拠
行政機関職員定員法(1949年5月31日 法律第126号、6月1日施行)の整理目標28万5,000人国家公務員全体
実際の整理人数27万人第一次・第二次整理の合計
うち国鉄9万3,700人(第一次3万700人=7月4日発表、第二次6万3,000人=7月12日発表)。「9万5,000人」とする資料も多い国鉄職員は1949年3月末で60万4,243人
郵政・電通約2万5,000人
企業整備による民間の解雇(1949年5月〜1950年3月)約44万人労働省「企業整備状況調査」
レッドパージ(1950年)官公庁1,177人+民間企業1万972人1万2,149人国立国会図書館「史料にみる日本の近代」

個別企業の規模も具体的です。東芝が1949年9月に4,581人(当初計画6,000人)、日立製作所が1950年に5,555人、 トヨタが1950年に最終2,146人、日産が約1,800人、いすゞが約1,200人。

国鉄の整理をめぐる時系列は、いま読むと異様な緊密さです。7月1日に整理基準を通告、7月4日に3万700人へ解雇通告、7月6日に下山事件、 7月12日に第二次通告、7月15日に三鷹事件。これらの事件によって国鉄労組と共産党への世論が悪化し、 人員整理は当初の予定通り強行されました。

トヨタ — 解雇を要求したのは、銀行だった

この章のケースとして、トヨタの1950年危機を置きます。財閥本社という資本の司令塔が消えたあと、その位置に誰が座ったのかを、 1社の記録で見ることができるからです。

営業損失が1か月で5.7倍になる

10月に自由販売へ移行。月賦販売比率が普通トラックで11月85%、12月87%に膨張し、代金回収は「3億5,000万円の出荷額に対して2億円程度と、6割を下回」った。営業損失は1949年11月の3,465万円から12月の1億9,876万円へ急増する。

「人員整理は絶対に行わない」と約束した

自工と労組が「危機克服の覚書」を締結。組合は賃金ベースの1割引き下げを受け入れ、会社は人員整理を行わないと約した。

日銀の斡旋、24行の協調融資、そして工販分離

日本銀行名古屋支店長・高梨壮夫の斡旋により、帝国銀行(後の三井銀行)と東海銀行を幹事とする24行の協調融資団が成立。年末決済資金として1億8,820万円が融資された。トヨタと取引のあった25行のうち、大阪銀行(=当時の住友銀行)だけが参加を降りたとされる。そして再建計画の基本方針として「販売資金と製造資金を峻別できる体制の確立」が掲げられ、4月3日にトヨタ自動車販売が設立された(資本金8,000万円、社長・神谷正太郎)。

1,600人の希望退職と、社長の辞任

4月22日の第8回団体交渉で会社が再建案を提示——本社在籍人員から1,600名の希望退職者募集、残留者は10%の賃下げ。4か月前の約束が破られた。5月25日に豊田喜一郎が辞任を表明し、6月5日に喜一郎社長・隈部一雄副社長・西村小八郎常務が辞任。6月10日に争議終結。最終的に2,146人が退職し、残った従業員は5,994人だった。

そして、2週間後に特需が来る

7月10日、米陸軍第8軍調達部から日産・トヨタ・いすゞの3社に正式発注の内示。警察予備隊向けを含め、1951年6月までに1万1,940台を契約・納入した。これは1950年10月〜51年6月の普通車販売台数の49%を占める。日産・トヨタは1950年上期無配だったが、下期と51年上期には20〜30%の配当を行った。

工販分離は、トヨタの自発的な戦略ではありませんでした。銀行団・日銀が求めた再建計画の基本方針です。 そして1,600人の解雇も、融資の条件として要求されたものでした。

第5章で、1944年4月に日本銀行の会議で福岡支店長が 「行員をして会社経理部の事務を兼任せしめ直接会社経営に接触せしむる如き仕組」を提案し、 資金調整局長が「銀行が軍需会社を支配する如く見らるるを以て具合悪し」と反対して退けた話を見ました。戦時には否定された「銀行が企業の経営に踏み込む」という関係が、 1950年には再建条件として実行されています。

解雇規制は、1975年まで存在しない

そもそも法制度の側に、雇用を守る仕組みがありませんでした。

条文(1947年 労働基準法)内容注記
第20条解雇予告:30日前の予告または30日分以上の平均賃金の支払い解雇そのものを制限する規定は一切ない
第32条労働時間:1日8時間・週48時間週40時間は1987年改正(1994年完全実施)
第39条年次有給休暇:6か月継続勤務・8割以上出勤で6労働日、1年ごとに1日加算、最高20日現行の「10日付与」は1987年改正以降
第89条就業規則の作成・届出義務:常時10人以上制定時には「退職手当に関する事項」という号そのものが存在しない。現行の第3号の2は1987年改正・1988年施行で追加されたもので、占領期の退職金は法的にほぼ無規律だった
第4条男女同一賃金の原則憲法第14条を受けた規定
解雇規制の形成
1947年労基法第20条(解雇予告のみ)
1950〜60年代下級審で解雇権濫用法理が形成され始める
1975年4月25日日本食塩製造事件・最高裁判決——「使用者の解雇権の行使も、それが客観的に合理的な理由を欠き社会通念上相当として是認することができない場合には、権利の濫用として無効になる」
1977年1月31日高知放送事件・最高裁判決(普通解雇にも適用)
2003年労基法第18条の2として明文化
2008年3月1日労働契約法第16条へ移動

「終身雇用の法的基盤」は、占領期にはゼロでした。企業が自由に解雇できる法制度のもとで、1949年から50年にかけて70万人以上が現実に職を失っています。

そして本章の中心命題は、ここから出てきます。

占領期に置かれた、その他の器

制度としては作られたが、機能し始めるのは次の時代——というものが、いくつかあります。

制度成立占領期の状態本格化
職業安定法 第33条の2(学校の無料職業紹介)1947年11月30日 法律第141号企業の採用意欲は低く、定期採用は限定的新卒一括採用の法的インフラになる。1954年に上野駅への集団就職列車が運行開始
職業安定法 第44条(労働者供給事業の禁止)同上——1985年の労働者派遣法まで、人材派遣は原則禁止のまま
退職金制度法定ではない(労基法に規定なし)1951年の労働省「退職金調査」で、従業員30人以上の事業所の83%(2万4,222事業所)が退職金規定を持ち、労働者数では91%(467万83人)に達していた法律が何も定めないまま、数年で事実上の標準になった。1952年度の税制改正で退職給与引当金の損金算入(当初は期末要支給額の100%)が認められ、制度として固定される
社宅・寮——1945年の住宅不足戸数は約420万戸。公営住宅の建設が追いつかず、企業が供給した「企業が生活を丸抱えする」構造の物質的基盤になる。第5章で見た住宅手当が、現物給付へ拡大した形
監督者訓練(TWI)1949年、労働省がGHQ経由で導入——1950年代のQC活動・提案制度の前史
ユニオンショップ協定占領期から普及——1950年代に大企業で標準化。「企業のメンバーシップ=組合のメンバーシップ」を固定した

復興は誰がやったのか — 3つの主役を疑う

戦後復興の物語には、3人の主役がいます。傾斜生産方式、ドッジ・ライン、朝鮮特需。この章はそのどれについても、通説より弱い評価を採ります。 そしてその根拠を、政府自身の白書と中央銀行の研究所が提供します。

まず、どこから始まったのか

1948年の経済白書が、戦災の規模を数字にしています。

わが國が空襲その他の戰災によつて國内において失つた資産(兵器、航空機、艦艇等軍事的資産の損失は含まない)の総額は、 終戰時價格で四九六億円、物價指数によつて昨年末の公定價格に換算すれば一兆三八三四億円に逹し、戰前の國内資産の二割約に当る

昭和一〇年におけるわが國の國民所得は一四五億円で、そのうち資本形成にあてられたものは約二二億円であり、 これを終戦時價格になおせば六五億円となるから、昭和一〇年当時の経済状況をもつてしても、前記の直接被害を回復するだけでも十年近くを要する計算となる

(経済安定本部『昭和23年 年次経済報告』第一部)

そして「戦前水準への回復」がいつだったかは、指標によって8年の幅があります。

1946年の経済指標(1934〜36年平均=100。出典: 三和良一『概説日本経済史』166頁)

指標1946年(1934-36年=100)戦前水準を超えた年
機械工業50.51949年
鉄鋼業22.31950年
国民総生産69.31951年
鉱工業生産27.81951年(月次では1950年10月に突破)
国民総生産・一人当たり63.51953年
繊維工業13.01956年
輸出等受取2.51957年

1946年の輸出は、戦前の2.5%——40分の1です。そして回復は1957年。一人当たりGNPで見れば戦前を超えたのは1953年です。 「戦後復興は10年」という感覚は、指標の選び方に依存しています。

傾斜生産方式は「成功した政策」ではなく、政治的レトリックとして生き延びた

1946年12月27日の閣議決定「昭和21年度第4四半期基礎物資需給計画」。 有沢広巳が立案した構想は、輸入重油→鉄鋼増産→炭鉱へ鋼材を傾斜配給→石炭増産→鉄鋼へ石炭を増配という循環でした。

資金面の集中は徹底しています。

産業設備資金(全金融機関)うち復興金融金庫<strong>復金比率</strong>
石炭産業338億7,700万円328億1,900万円96.9%
電気業205億8,000万円191億2,900万円92.9%
海運業155億6,900万円133億1,700万円85.6%
鉄鋼業28億2,100万円19億4,300万円68.9%
肥料71億1,300万円45億5,500万円64.0%
繊維工業110億8,800万円49億7,500万円44.9%
融資合計1,273億8,000万円943億4,200万円74.1%

石炭産業の設備資金は、事実上100%が復金です。石炭生産3,000万トン(1947年度)という目標も達成されました。では成功したのか。

山崎志郎(東京都立大学)が1947年度の物資需給計画を精査した研究は、達成の中身が構想と違っていたと論じます。

石炭、鉄の雪だるま式増産といふ理想計画は実現出来ず、 本年度石炭3,000万屯、普通鋼々材70万の計画をはるかに下廻ることが既に上半期の実績から確認されてゐる

(日本製鉄内部からの同時代的批判。山崎志郎『1947年度物資需給計画——傾斜生産方式の再検討』が引用)

山崎の結論は、3,000万トンは達成されたが、達成の要因は「資本財投入による生産性上昇」ではなく 「GHQが強力な介入姿勢を示したこと」と労働力の大量投入・労働強化だったというものです。 しかも「下半期に達成した石炭増産の成果の多くは、渇水期の電力危機に対応する火力発電用と、 当初計画よりも大幅に削減されてきた鉄道用に供給された」ため、鉄鋼への好循環は作れませんでした。

鋼材、炭鉱用機械の投入によって炭鉱合理化を進め、エネルギー、生産財の好循環を作る当初の意図は、 政権交代と不安定な政局運営も重なって、結局達成できなかった

(山崎志郎、前掲)

そして山崎は、なぜ「傾斜生産方式」という言葉だけが生き延びたかを説明します。

こうした実態にも拘わらず、石炭、鉄鋼だけでなく、時々に肥料、電力、鉄道重点対策に対してまで、 「傾斜生産」の名称が使われ、政策の継続が謳われ続けた。 その背景には、復興を阻害する貿易・資本導入制限、賠償指定といった占領政策に対する批判はできず、 一方で国民に耐乏生活を強いていた脆弱な政府にとっては、生活物資全般の増産が遅れることの説明として、 生産財への「傾斜」に藉口することが都合がよいという事情があった

(同上)

「傾斜生産方式」は、成功した政策というより、政府が国民の耐乏を説明するための言葉として機能した—— という読みです。

復興金融金庫については、もう一つ皮肉があります。 1950年1月末の融資総額1,077億円のうち、399億円(37%)が、貸出額10億円以上のわずか11社に集中していました (日本発送電、三井鉱山、三菱鉱業、北海道炭礦汽船、昭和電工、井華鉱業、関東配電、関西配電、明治鉱業、宇部興産、東芝)。財閥解体で株式の集中を壊しながら、資金の集中は政府自身が作っていたわけです。 そのうち昭和電工は、1948年に復金融資をめぐる汚職事件を起こしています。

さらに、復金の資本金700億円のうち政府が実際に出資したのは30億円だけで、 残りは復金債=日銀引受でファイナンスされました。 1947年度だけで復金債559億円を発行し、その76.0%を日銀が引き受けています。 日本銀行は自らの正史でこう書いています。

一般会計の収支均衡を実現したといっても、財政の赤字要因を特別会計や政府機関である復興金融金庫に しわ寄せしていたというのが実情であって、これが銀行券発行高の増加をもたらし、 インフレーションを高進させる原因になったことは否定できない。

(日本銀行『日本銀行百年史』第5巻、111頁)

ドッジがインフレを止めた、は通説であって定説ではない

1948年12月18日の経済安定九原則、1949年2月のドッジ来日、 4月25日の1ドル=360円。この政策がインフレを止めた、というのが教科書的な説明です。

ところが、日本銀行金融研究所の伊藤正直は、 この論点が研究上ずっと対立してきたと整理しています。

立場論者主張
従来説鈴木武雄(1960)、吉野(1975)インフレ収束はドッジの手で実現された
批判説中村隆英(1976/1979)1948年末にはすでに物価上昇率が鈍っていた。GHQと経済安定本部の「中間安定」政策がそれを支えた。九原則の成功は実体経済面の条件が既に整っていたから
批判説寺西重郎(1993)「ドッジの登場以前にすでにインフレは趨勢的に沈静化の動きを示して」いた。物価統制と価格差補給金による「価格コントロールとアンカーリング」が有効だった
全面否定Borden(1984)ドッジ・プランは「錯誤の政策」で「物価水準にはあまり影響を与えず……産業復興を遅らせた

伊藤自身のデータ確認はこうです。

闇物価指数でみる限り、生産財でも消費財でも1948年半ば辺りからインフレはほぼ沈静化したようにみえる。 卸売物価指数、小売物価指数をとっても……両者とも1948年9月頃から明らかに上昇幅を低下させている。 通貨発行高も、1947年3月以降は増発幅を低下させており、1949年に入ると縮小に転じている

(伊藤正直「戦後ハイパー・インフレと中央銀行」日本銀行金融研究所、2012年)

中央銀行自身の研究機関が出した論文が、「ドッジが止めた」を通説として相対化しています。

朝鮮特需 — 輸出の2倍のドルを稼いだが、国内生産の1.82%にすぎなかった

1950年6月25日の朝鮮戦争勃発。 GHQが初めて特需契約高を発表した8月5日の時点で、 6月25日からの累計は物資51万ドル、サービス76万ドル、計127万ドルにすぎませんでした。

輸出と特需収入(出典: 浅井良夫「1950年代の特需について」成城大学『経済研究』158号ほか)

ただし、この図の「輸出」は輸出額であって、そこから受け取ったドルとは別です。 浅井良夫の指摘が、この時期の日本経済の性格を一変させます。

1952年には、貿易受取額は約13億ドルであったのに対して、特需受取額は約8億ドルであるが、 ドル受取額だけに着目するならば、1952年の輸出によるドル受取額約4億ドルに対して、 特需はその倍の約8億ドルにも達している。特需は、輸出の2倍のドルを稼ぎ出したことになる。 1951年〜54年の4カ年を通じて、輸出によって稼ぐドルよりも、特需によって稼ぐドルの方が多かった。

(浅井良夫「1950年代の特需について(1)」成城大学『経済研究』158号、236-237頁)

「輸出立国」の前に、「特需立国」の時期がありました。1952・53年には特需による外貨受取額が経常取引の外貨受取額の3分の1以上、 1951・54年にも4分の1を占めています。

景気の実感も数字で確認できます。

業種1949年下期の自己資本利益率1950年度の自己資本利益率
綿糸紡績業26%156%
化繊産業32%194%
鉄鋼業5.4%30%

1951年の法人税上位10社は、すべて繊維業種でした。土嚢・軍服・天幕の受注です。綿紡績は1950年6月に400万錘の枠が撤廃され、 1951年末には600万錘を突破、同年に綿織物輸出量で世界第1位になっています。

ところが、特需そのものの規模を国内生産と比べると、小さい。

国内生産に対する特需の比率はそれほど高くない(1951年国内生産の1.82%)が、 波及効果も考慮に入れれば、特需がなかったとすれば1951年に国内生産は5.55%、付加価値生産額は2.27%減少したであろう。 さらに朝鮮戦争を契機とする世界的ブームによる貿易拡大も存在しなかったとすれば、 それぞれ15.30%、6.25%にも及んだ

(米澤義衛「昭和26年産業連関表」による推計。浅井良夫が引用)

効いたのは軍需の直接需要ではありません。①ドル(外貨制約の解除)と、②世界的ブームを経由した輸出です。 実際、鉄鋼の国内生産量に対する特需の比重は1950年度で6.2%にすぎず、 「金へん景気」の実体は輸出でした(鉄鋼輸出量は1949年24万トン→50年61万トン→51年102万トン)。

政府自身が「統計上の回復は過大に表現されている」と書いていた

1952年の経済白書は、戦後の回復要因を政府自身が4つ挙げています。①国際情勢の変化 ②米国の援助 ③遊休設備の存在 ④復金融資や補給金支出。

戦後における日本経済の一張一弛は、米国の対日政策と国際情勢の起伏に照応しているといつても過言ではない

戦後の援助輸入額は二一億ドルを超えており(二六年末までの輸入総額の四割弱)、二二年ごときは輸入総額の中七七%までが援助輸入であつた

〔昭和21年末の操業度は〕自転車、ソーダ、綿織物、人絹糸および織物は約三〇%、セメント、ゴムは約二〇%、鉄鋼、工作機械は一〇%であつた。従つて若干の補修さへ行えば、あとは原材料の投入に応じて生産を急速に増加する事が可能だつた

(経済審議庁『昭和27年 年次経済報告』第一部)

そして、同じ白書がこう認めます。

米のかくれ生産の例にみるごとく、経済統制の解除につれてそれまで裏面に隠されていた日本経済の含みが次第に顕在化したため、統計数字上の回復が若干過大に表現されていることなども否みえない

今後は有効需要の動向いかんにかかわらず、生産の情勢は鈍化せざるをえないであろうが、 むしろ従来の急速度な伸び方が回復時の異常現象だつたことを認識せねばならない

(同上)

「戦後復興」の3つの主役——傾斜生産方式、ドッジ・ライン、朝鮮特需——のうち、 ①は当初構想を達成できず、②はインフレを止めた主犯ではない可能性が高く、③は直接効果が1.82%にすぎませんでした。にもかかわらず日本経済は回復し、政府自身がその回復を「異常現象」と呼んでいます。

断定を避けるべき論点

占領期は、日本経営史のなかでもっとも評価が割れる時代です。 本章が採らなかった立場も含めて、争点を整理します。

graph TD
  Q["占領改革をどう評価するか"]
  A["軸1: 財閥解体は徹底されたか"]
  B["軸2: 何が連続し、何が断絶したか"]
  C["軸3: 政策転換の原因は何か"]
  A1["社数では3.4% / 資本金では33.3%"]
  B1["戦時起源の強い連続 / 断絶と再編を経た緩やかな継承"]
  C1["冷戦という外圧 / GHQ内部の対立と日本側の自発的再編"]

  Q --> A
  Q --> B
  Q --> C
  A --> A1
  B --> B1
  C --> C1

  style Q fill:#2563eb,stroke:#1d4ed8,color:#fff
  style A fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
  style B fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
  style C fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
占領改革の評価は3つの独立した軸に分解できる。第5章で「1940年体制論」を3軸に分けたのと同じ構造である。「財閥解体は不徹底だった」という一言は、軸1に社数という分母を選んだ答えにすぎない。
論点A説B説本章の扱い
財閥解体は高度成長の前提を作ったか競争促進説(Bisson 1954、Hadley 1970、GHQ側)不徹底説(分割11社にとどまり多くが再合併、企業集団として復活)決着していない。どちらも一次資料に根拠がある。本章は分母の取り方で答えが変わることを示すにとどめた
財閥は戦時中に実質的支配力を失っていたか経済シェアは拡大した(四大財閥の重工業投資シェアは18.0%→32.4%、金融は25.2%→49.7%)株主権は制限され経営者の自律性は拡大していた(1940年の配当制限、1943年の軍需会社法。岡崎哲二)「支配力」の定義次第で答えが変わる。シェアと統制メカニズムを混同しないこと
公職追放は企業成長を促進したか経営者の若返り・技師系専門経営者化(森川英正、中村隆英)「経営経験の欠如」と「社外取締役の消滅」という二重の統治空白(宮島 1994)本章は断定しない。「若い経営者ほど成長率が高かった」という命題を支持する実証を確認できなかった
戦後は「経営者企業の時代」か内部昇進の専門経営者が1930年7.0%から1955年62.5%へ(森川英正)。「近代日本経営史の流れを貫く赤い一本の糸」橘川武郎は①「株主反革命」の防止こそが本質 ②高度成長の主役はトヨタ・松下・本田らオーナー経営者だった、と反論両説を併記した。「所有と経営の分離が進んだ」ことと「成長を担ったのが専門経営者だった」ことは別の命題である
株式相互持ち合いはいつ、なぜ始まったか財閥解体で安定株主を失った企業が買占めに対抗して持ち合った(奥村宏、橘川武郎、宮島英昭)菊地浩之は①住友は社長会結成時に持ち合いが0.29%しかなかった ②買占めの標的は「株が分散した企業」ではなく「過小資本の優良企業」だった ③持ち合いの実態は銀行による融資の付け替えだった、と反論本章は数字を併記した。1950年代前半の持ち合い比率は通説が想定するより低い
財閥家族は資産を失ったか通説は「壊滅」Ericson 2021 は「相当規模の資産を保持」「決定的だったのは日本政府の財産税」「1952年以降に買い戻した例がある」「近年の研究では」という留保付きで紹介した。実質価値は97%下落しており、「保持した」と「豊かなまま」は別の話
企業別組合の起源産報継承説(大河内 1971)/連続説の再提起(金子 2014)断絶説(二村 1984。ホワイトカラー参加を根拠とする現在の通説)係争中。帝国議会の指摘(1945年12月)は個別事例の存在を示すが、全国的規模の実証ではない
メインバンク制はこの時期に成立したか銀行中心の企業集団が成立した(宮島 1994)三輪芳朗・ラムザイヤー 2001 は「1953-58年に旧財閥系企業が銀行との結びつきを強めようとした証拠は見出せない」とする有力な計量的反論が存在する。ただし三輪・ラムザイヤーの立場は学界では少数派である
「逆コース」の原因ジャパン・ロビー説(Schonberger 1989)/米国の戦略的関心説(Dower 1999)Ericson 2026 は「GHQ内部の部局が反トラスト課に抵抗していた」「1948年以降、数千の日本企業が自発的に再編した」とするEricson の修正は最新かつ抄録レベルの情報しか確認できていないため、断定的には扱わない
「三種の神器」の成立時期占領期説/高度成長期説Gordon 1985 は「1920年代に萌芽、1940年代と1950年代に成立」とする中間説第7章に持ち越す。本章は「材料が揃う過程」までを扱った

現代への接続

この章で作られたもの、壊されたもの、そして意図せず生まれたものを整理します。

この章で起きたこと現代における姿連続性の性質
持株会社の全面禁止(独禁法第9条、1947年)——(1997年改正で「事業支配力が過度に集中することとなる持株会社」の禁止へ転換)50年続いた。日本で純粋持株会社が解禁されるのは1997年。第3章で見た財閥の中核装置は、半世紀にわたり法律で禁じられた
金融機関が集排法の対象から外れた(1948年4月のGHQ宣言)メインバンク制/メガバンクの位置直接連続。資本の司令塔は消え、資金の結節点は残った。この非対称が戦後の企業集団の形を決めた
証券取引法第65条(1948年、銀行の証券業務を原則禁止)——(1990年代の金融制度改革で緩和)約50年続いた。立法趣旨は「銀行の健全性確保」ではなく「証券会社の保護・育成」だった
個人株主69.1%(1949年度)からの反転株式相互持ち合いと政策保有株式直接連続。安定株主がゼロに近い状態で買占めが起き、防衛として持ち合いが始まった。Deep Dive 企業編で扱う各社の資本構成の前提になっている
新旧勘定分離と戦時補償打切り(1946年8月〜10月)借入依存の企業金融直接連続。日本銀行が「事業資金の調達はもっぱら金融機関借入れに依存せざるをえなくなった」と明記する
経営陣の総入れ替え(122社中112社)社内昇進の専門経営者、社外取締役の不在直接連続。宮島は「社外取締役を完全に消滅させた」と評価する。社外取締役の設置が本格的に求められるのは2015年のコーポレートガバナンス・コード以降で、第10章で扱う
技術者出身の社長が21.4%から45.9%へエンジニア主導のものづくり企業連続。ただし「だから成長した」という因果は実証されていない
工職身分制の撤廃(工職混合組合、1946〜48年)「正社員」という概念/メンバーシップ型雇用直接連続。戦時の重要事業場労務管理令(職員・工員共通の昇給)と占領期の身分制撤廃という2段階で成立した。Deep Dive HR「人事制度の三本柱」第6章 ジョブ型とメンバーシップ型の前提
電産型賃金体系(1946年12月)年齢・家族構成を考慮した賃金、定期昇給迂回した連続。戦時の生活給思想を、国家ではなく労働組合が実装した。同 第5章 報酬制度で扱う現代の報酬設計の起点
企業別組合(事業所別から出発)企業別組合と春闘連続。ただし起源は係争中。総同盟自身が1946年1月に「迷妄」と呼んで打破しようとして失敗した。企業連が実質的な単位になるのは1960年代
経営権の確立(1946年6月13日声明、1950年11月15日最高裁判決)人事権は経営専権という観念直接連続。「企業の利益と損失とは資本家に帰する」——財閥解体のただ中で、所有権は解体され、経営権は守られた
政令201号(1948年7月31日)公務員の労働基本権の制約直接連続。1945年労組法では官吏の団結権が認められていたことを思うと、2年半での反転である
労働基準法(1947年)労働時間・就業規則・解雇予告直接連続。ただし解雇規制は含まれていない。解雇権濫用法理の確立は1975年、明文化は2003年
職業安定法 第33条の2(学校の無料職業紹介、1947年)新卒一括採用直接連続。Deep Dive HR「ATS完全ガイド」第6章 日本の採用構造で扱う新卒採用の法的インフラ
職業安定法 第44条(労働者供給事業の禁止)——(1985年 労働者派遣法まで)約38年続いた。人材派遣が原則禁止だった時代の起点
退職給与引当金の損金算入(1952年)退職金制度直接連続。第4章で見た「失業保険ではなく企業の退職金で備える」という分岐が、税制で固定された
電気事業再編成令(1950年)→9電力体制(1951年5月1日)地域別の電力会社直接連続。第5章で見た1942年の9配電会社体制が、そのまま生き残った
社長会(白水会1951年、金曜会1954年、二木会1961年)企業集団連続。ただし支配ではない。持株会社という所有による支配の装置は復活していない。1954年の相互持ち合い比率は三菱14.8%・住友15.8%・三井7.9%
「財閥商号」の禁止と復帰(1949年〜1952年)三菱・三井・住友の商号ほぼ完全に戻った。ただし安田銀行だけは戻らず、富士銀行のまま2002年のみずほ統合を迎えた
経済同友会「企業民主化試案」(1947年)——(機関決定されなかった)断絶。企業総会という構想は実現しなかったが、「修正資本主義」は流行語になり労使協調路線として残った

レイヤーごとの答えです。

  • ① 資本と所有:GHQの設計図はいったん実現し、そして正反対に倒れた。個人株主比率は1945年53.1%から1949年度69.1%へ——調査開始以来の最高値である。だが同じ年、金融機関9.9%・事業法人5.6%はどちらも史上最低で、証券会社12.6%は史上最高だった。安定株主がゼロに近い状態で株価は14か月後に半値以下(1950年7月6日の85円25銭は今も日経平均の史上最安値)になり、従業員は株を売り、証券会社に在庫が滞留し、それが乗っ取りの弾薬になった。企業は持ち合いへ走る。1960年には個人46.3%・金融機関30.6%である。そして財閥は解体されたが、財閥銀行は解体されなかった——1948年4月のGHQの一言によって
  • ② 組織と統治:支配の装置が消え、社内昇進の経営者だけが残った。大企業122社中112社でトップが交代し、社外からの招聘はわずか4例、技術者出身の社長は21.4%から45.9%へ倍増した。三菱電機では労働組合が社長候補を選んでいる。宮島はこの交代を「社外取締役を完全に消滅させた」「新経営陣には経営経験が乏しかった」という二重の統治空白として評価しており、「若返りが成長を高めた」という因果は実証されていない。経済同友会が提案した「企業総会」——株主総会を廃し労働者代表を最高意思決定機関に入れる構想——は機関決定されずに終わった
  • ③ 雇用と人事:身分が消え、雇用は不安定だった。1948年6月末、製造工業の組合員の87.4%が工職混合組合に属し、1946年12月22日の電産協定書は「賃金ニツイテハ資格階級制度並ニ学歴、性別ニヨル不平等ナ取扱ハシナイ」と明記した——憲法施行の4か月以上前である。生活保障給は基本賃金の約8割を占め、その部品(家族給・地域給)は戦時の国策からの借用だと当事者が証言している。国家が作れなかった生活給を、国家と闘った組合が実装した。だが同じ時期、1949年だけで公務員約27万人・民間44万人が職を失った。しかも1949年の労組法改正が労働協約の自動延長条項を無効にしたことで人事同意条項が失効し、組合の同意なしに解雇できるようになっている。解雇権濫用法理の確立は1975年である

そして、この章が示したことをもう一度書きます。

壊すつもりだったものが残り、作るつもりだったものが消えました。持株会社は消えたが銀行は残った。株主は分散したが、すぐに法人へ集まり直した。 所有権は解体されたが、経営権は最高裁が守った。 身分制は撤廃されたが、労働者は企業ごとに組織された。

この章で起きたのは「解体」ではなく「組み替え」です。第5章で作られた部品——間接金融、年功賃金、生活給、下請の専属化、9配電会社体制——のうち、 どれが捨てられ、どれが別の担い手のもとで再利用されたかが、ここで決まりました。

次章では、その組み替えられた仕組みが初めて機能します。OECDの対日労働報告書(1972年)が「三種の神器」と名づけた終身雇用・年功賃金・企業別組合が、 実態としてどこまで広がったのか。新卒一括採用と内部労働市場がどう完成したのか。 デミング賞(1951年)からQCサークル(1962年)へ、トヨタ生産方式のジャストインタイムと自働化、 系列取引と下請構造、総合商社の機能、そして株式相互持合いによる安定株主工作。本章では自由に解雇できた企業が、なぜ解雇しなくなるのか。第5章と第6章で置いた部品が、そこで組み上がります。

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Q1

1949年度の日本の株式所有構造について、本章の内容として最も適切なものはどれですか?

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