前章では市場が制度を作った。この章では国家が作る

第4章で見たのは、危機が制度を作るという過程でした。 恐慌下の賃金カットが長勤続を温存したことから年功的処遇が立ち上がり、 金融恐慌と1927年銀行法が普通銀行を1,283行から538行へ減らして五大銀行への集中を生んだ。 誰も設計していないのに、圧力の結果として形ができていく話です。

この章で起きるのは、その反対です。国家が、法令で、意図して同じことをやります。

1938年4月1日の国家総動員法から1945年8月の敗戦まで、7年余り。 この間に、株主の権利は制限され、配当に上限がつき、銀行と企業が1対1で紐づけられ、 賃金の決め方が勅令で定められ、労働組合は解散して労使一体の組織に置き換わります。

そして問いが立ちます。いま私たちが「日本的」と呼んでいる企業のかたちは、 この7年間に作られたのではないか。野口悠紀雄が『1940年体制』(1995年)で提起したのがこの論点でした。

本章はこの問いに、両側から答えます。 制度がどれだけ作られたかを一次資料で示し、 同時にその制度がどれだけ機能しなかったかも同じ一次資料で示します。

戦時統制の年表 — 7年で企業が設計され直す

日中戦争開始 → 臨時資金調整法・企画院

7月7日盧溝橋事件。9月10日に臨時資金調整法が公布され(9月27日施行)、金融機関の設備投資融資・証券引受、および事業会社の設立・増資・合併・設備投資に政府の許可が必要になる。許可事務は日本銀行に委任された。10月25日、国家総動員機関かつ総合国策企画官庁として企画院が発足する。同年8月28日にはトヨタ自動車工業が設立された。

国家総動員法 公布(5月5日施行)

昭和13年法律第55号、全50条。民政党・政友会は「勅令委任の範囲が広すぎ違憲の疑いがある」と強く反対したが、3月11日に近衛首相が衆議院解散を検討との情報が流れると態度を一変させ、3月12日の委員会で質問を辞退して無修正・満場一致で通過した。同年4月5日に有限会社法(法律第74号)、商法改正(法律第72号)が公布される(いずれも1940年1月1日施行)。8月30日には産業報国連盟が結成された。

賃金・労務・物価の統制が一斉に来る

3月に工場技能者養成令(16歳以上の男子を常時200人以上雇用する工場に3年間の技能者養成を義務づけ)と第一次賃金統制令。4月1日に日本発送電株式会社が設立され、五大電力の発送電設備が「現物出資」の形で集約される。7月8日に国民徴用令(勅令第451号、7月15日施行)。10月18日に価格等統制令(勅令第703号、10月20日施行)。従業員雇入制限令・青少年雇用制限令により雇入れが職業紹介所長の認可制になり、「国民労働手帳」で管理された。

源泉徴収・会社経理統制令・経済新体制確立要綱

4月1日、給与所得への源泉徴収が始まる(公債・社債利子への源泉徴収は1899年から存在しており、新しいのは給与への拡大である)。10月19日に会社経理統制令と銀行等資金運用令が公布され、配当が統制される一方で福利厚生費の制限枠は拡充された。同年、第二次賃金統制令が「生活の安定」を掲げて賃金制度そのものに踏み込む。日本労働総同盟は自主的に解散。11月23日に大日本産業報国会が結成され、12月7日に第2次近衛内閣が経済新体制確立要綱を閣議決定する。12月には機械鉄鋼製品工業整備要綱が下請の専属化を打ち出した。

重要産業団体令 — カルテルが国家機関になる

8月30日公布(勅令第831号、9月1日施行)。産業ごとに統制会(全国組織)と統制組合(地方組織)を設立し、政府が人事・運営に強力な権限を持つ「政府→統制会→統制組合というピラミッド型支配」を作った。第一次指定は同年10月の12統制会で、1942年8月までに22部門へ拡大する。1月から4月にかけては企画院事件が起き、経済新体制確立要綱の原案を書いた和田博雄・稲葉秀三ら17名が治安維持法違反で検挙された。12月8日、太平洋戦争開戦。

日本銀行法・企業整備令・重要事業場労務管理令

2月24日に日本銀行法(法律第67号)が公布され、5月1日に日銀が改組される。4月18日に金融統制団体令(勅令第440号)、5月1日に全国金融統制会が発足。5月13日に企業整備令(勅令第503号)が公布され、軽工業・中小企業が整理されて重点工場の下請・協力工場に転換していく。そして重要事業場労務管理令が、職員と工員に共通して適用される形で昇給の仕組みを規定した。4月1日には配電統制令に基づき9配電会社が発足している。

軍需会社法 — 生産責任者制度

10月31日公布(法律第108号、12月17日施行)。指定した軍需会社に、商法上の役員とは別に「生産責任者」「生産担当者」を置かせ、政府が生産責任者の解任権を持った。日本銀行の評価は「形式上は民有民営の形態を残しながら、実質的には国家管理を実施したもの」。11月1日に軍需省が設置される。6月26日には企業整備資金措置法(法律第95号)が公布され、企業整備に伴う債権が「特殊決済」として凍結された。12月、トヨタの協力会が発展的に解消して協豊会が発足する。

軍需融資指定金融機関制度 — 1社1行

軍需会社の第1次指定150社(三菱重工業・中島飛行機ほか)と同時に、大蔵省が「軍需会社ニ対スル資金融通ニ関スル要綱」を決定。指定金融機関が担当軍需会社への融資に責任を持つ制度で、「原則として1軍需会社1行を建前」とした。指定は4月に第2次424社、12月に再追加119社と広がり、1945年3月ごろには678社に達する。当初は法制化の折衝がまとまらず行政措置で始まり、1945年2月16日公布の軍需金融等特別措置法(法律第21号、3月23日施行)でようやく法的根拠を得た。

崩壊 — そして制度だけが残る

3月30日に地方銀行77行の共同出資で共同融資銀行が設立され、5月12日には日本銀行が中心となって資金統合銀行が設立される(役員の主要ポストや職員も日銀職員が兼務する「本行の別働隊のような存在」)。8月15日敗戦。鋼材生産は711千トン、石油製品は178千キロリットルまで落ちた。9月30日に連合軍が全国金融統制会の業務を停止、10月24日の勅令第603号で解散。ただし軍需融資指定金融機関制度は戦後もしばらく残され、廃止は1946年5月24日である。

レイヤー① 資本と所有 — 株式が38.8%から9.1%になった

産業資金の構成が、8年で裏返った

第4章で、1932年度の企業の長期資金調達の62.5%が「株主への追加払込」だったことを見ました。 戦前の企業金融は、良くも悪くも株主から取るものだったわけです。

その世界が、どうなったか。

産業資金供給に占める構成比(出典: 日本銀行『日本銀行百年史』第4巻 表3-23。原資料は日本銀行『本邦経済統計』昭和28年版)

株式38.8%が9.1%へ。貸出9.2%が58.3%へ。グラフの2本の線が1939年に交差し、そのまま開いていきます。

株式債券貸出外部調達 計内部資金
1934〜36年平均38.8%0.2%9.2%48.2%51.8%
1939年24.3%7.8%40.2%72.4%27.6%
1942年25.6%8.9%34.0%68.5%31.5%
1944年9.1%8.3%58.3%75.7%24.3%

ついでに見えるのは、内部資金の比率も落ちていることです。 1934〜36年に51.8%だった内部資金(減価償却+社内留保)は1944年に24.3%。 企業は自分の稼ぎでも株主の金でもなく、借金で回るようになりました。

軍需融資指定金融機関制度 — 「1軍需会社1行」

では、誰が貸したのか。ここに制度があります。

1943年10月31日、軍需会社法(法律第108号)が公布されます。 そして翌1944年1月18日、第1次指定150社——三菱重工業、中島飛行機ほか——が指定されると同時に、 大蔵省が「軍需会社ニ対スル資金融通ニ関スル要綱」を決定しました。

指定の実数を見ると、どの銀行が中心だったかがはっきりします。

軍需融資指定金融機関の指定状況(第1次150社+第2次424社の合計、単独・共同の計。出典: 日本銀行『日本銀行百年史』第4巻 表3-9。原資料は日本興業銀行臨時史料室『日本興業銀行五十年史』)

合計831社分(単独368・共同463)。 日本興業銀行146社と帝国銀行140社が突出しています。 なお帝国銀行は約1年前に第一銀行と三井銀行が合併して発足した銀行なので、 日本銀行は「同行指定分はいわば2行分と考えると、 この制度の下における日本興業銀行の存在は際立って大きなものとなる」と評しています。

逆に、地方銀行はほとんど入っていません。 「地方銀行を指定金融機関とする事例は、地方的な会社に対する融資か 大企業地方工場のための当座資金のみの融資を担当する場合に限られていた」。

「協力団」に降格した地方銀行

地方銀行が置かれた位置は、制度の設計に明確に書き込まれています。

それまでの共同融資団ないし社債引受シンジケート団では そのメンバーがそれぞれ自己の資金分担額を自己の名義で貸し付け、あるいは社債引受けをしていたのに対し、 軍需融資協力団の場合は、そのメンバー名が指定金融機関から融資先軍需会社に通知されるだけで、融資はすべて指定金融機関名義で行われていた。したがって融資の実質的な意味は両者の間で著しく異なったものとなり、軍需融資協力団メンバーは指定金融機関に対する資金供給者にすぎなくなった。

(日本銀行『日本銀行百年史』第4巻)

金は出すが、名前は出ない。関係も持てない。「企業と関係を持つ銀行」と「その銀行に金を渡すだけの銀行」という階層が、ここで制度化されました。

普通銀行に占める都市銀行のシェア(出典: 日本銀行『日本銀行百年史』第4巻 表3-17。原資料は日本銀行統計局『本邦経済統計』昭和30年報)

都市銀行の貸出シェアは1936年末の48.3%から1944年末の75.2%へ。日本銀行の記述では、1936年末から1944年末にかけて都市銀行の貸出残高は8.6倍、 地方銀行は2.7倍にとどまりました。

第4章で見た「五大銀行の貸出シェア1930年27.6%→1940年44.7%」の続きが、ここにあります。 集中は止まらず、加速しました。

配当は止め、福利厚生費の枠は拡げた

資金の出どころが変わると、出ていく先も変わります。

1940年10月19日、会社経理統制令が公布されます(同日、銀行等資金運用令も公布)。 この勅令は配当を統制しました。株主への分配に上限をかけたわけです。

ところが同じ勅令が、別のものは緩めています

1930年代末から逼迫する労働力確保のために福利厚生制度が発達したが、 1940年に会社経理統制令が福利厚生関係の経費(健保、退職金、安全衛生等)の制限枠拡充を認めたことを契機に広く普及した。 さらに、重要事業管理令が一定規模の企業に教育訓練、体育、食事、診療などの措置を課したことにより 様々な福利厚生措置が定着した。

(草野隆彦『雇用システムの生成と変貌——政策との関連——Ⅰ 戦前期の雇用システム』JILPT資料シリーズNo.199-1、2018年3月)

株主に配ることを制限し、従業員に配ることを認める。「日本企業は株主より従業員を大事にする」と言われるあの構造の法的な原型が、ここにあります。 第4章で見たとおり、戦前の株主は追加払込を請求される立場でしたが、 少なくとも配当は受け取っていました。それが止まります。

一般会社の社債は、消えた

資本市場のもう一方の柱、社債はどうなったか。

事業債発行に占める一般会社債と特殊会社債の比率(出典: 日本銀行『日本銀行百年史』第4巻 表3-11。原資料は公社債引受協会編『日本公社債市場史』)

一般会社債は1937年の71.9%から1944年の11.2%へ。代わりに増えたのは国策会社の社債(特殊会社債)で、その多くは政府保証付きでした。

そして市場そのものが機能を失います。

引受シンジケート団が所有社債の売却を自制することを申し合わせたが、これは社債の市場性を失わせるものであった。こうしてわが国の起債市場は、形はともかくとして、事実上市場の機能を喪失し、 債券発行も金融機関貸出と同様、統制的資金配分の一手段になったということができる。

(日本銀行『日本銀行百年史』第4巻)

1940年10月に初めて起債計画が作られ、12月には常設機関として 「起債計画協議会」(大蔵省・企画院・簡易保険局・日本銀行・日本興業銀行)が設けられました。四半期ごとに発行額を査定し、消化まで計画する。第4章で「戦前の資本市場は量は大きく質は内輪だった」と書きましたが、 内輪ですらなくなり、割当になりました。

日本銀行自身が「戦後に引き継がれた」と書いている

ここまでは制度の話です。では、これは戦後に残ったのか。

この点について、当事者中の当事者が明言しています。

日中戦争勃発から太平洋戦争終結に至る時期(以下、戦時期と呼ぶ)の金融統制は、 多方面にわたり、かつ極めて強力なものであり、しかもインフレ傾向のもとで長期にわたって続けられた統制であったから、 それがわが国の金融構造を大きく変化させたことはいうまでもない。 そしてそれらの多くは戦後に引き継がれ、戦後におけるわが国金融構造の特色として定着した。……その意味で戦時期における金融構造の変化を明らかにすることは、 単に戦時金融統制が何をもたらしたかを示すだけでなく、戦後金融を分析する場合の第一歩になるものと考えられる。

(日本銀行『日本銀行百年史』第4巻「金融構造の変化と本行機能の変化」冒頭)

日本興業銀行についても、同書は 「軍需産業に対する融資面での中心的活動により、その業容を大きく伸長させたが、 同行はそうした産業界との結びつきを通じて、戦後の産業金融における活躍の基盤を作り上げた」と書いています。 興業債券の発行残高は1936年末の2億4,300万円から1944年末の56億9,600万円へ、23.4倍。 金融債全体の49.9%を占めました。

統制は機能したのか — 数字は「していない」と言う

ここで、この章のもうひとつの柱に入ります。これだけの制度を作って、生産は増えたのか。

鋼材生産は、1937年を一度も超えなかった

鋼材と石油製品の生産(出典: 日本銀行『日本銀行百年史』第4巻 表1-23。原資料は日本銀行調査局「昭和五年以降に於ける我国主要産業の趨勢」)

1938年の5,489千トンが最高で、以後は5,000千トン台で横ばい、1944年に4,076、1945年に711。7年にわたる統制のあいだ、鋼材生産は1938年の水準を一度も超えていません。

第3章で、1908年の日本は鋼材自給率20%で鉄を輸入していたと書きました。 第4章で、1934年の日本製鐵が国内生産の銑鉄96%を占めたと書きました。 そして統制経済は、その先へ進めませんでした。

鉱工業生産指数も同じ絵を描きます。

期間鉱工業生産指数の伸び繊維工業食料品工業
1931→1936年(統制前の5年)1.64倍————
1936→1941年(統制下の5年)1.44倍0.69倍(減少)0.85倍(減少)

(日本銀行『日本銀行百年史』第4巻 表1-15。1960年平均=100の指数。原資料は通商産業省「昭和35年基準鉱工業指数総覧」)

昭和16年までの5年間に生産は44%増大したが、それ以前の5年間の伸び率64%増に比較すると、かなり低い。 とくに昭和15年以降は明らかに停滞局面に入っていた。 ……このようにして鉱工業生産は政府の生産計画を達成できなかったケースが多かった。さらに昭和15年〜16年ごろになると、資材入手難から軍需産業ですら生産計画そのものを縮小しなければならないというケースも少なくなかった。 ……こうしてわが国の鉱工業生産は、太平洋戦争勃発前にすでに厳しい事態に陥っていたということができる。

(日本銀行『日本銀行百年史』第4巻)

1944年、砂糖の闇価格は公定の140倍

価格統制の実効性は、もっとはっきり測れます。 第4章で見た1939年の価格等統制令(いわゆる「9・18ストップ令」)が何をしたかです。

では、その上限は守られたのか。

1944年10〜12月の公定価格と闇価格(1937年6月比、倍)。出典: 日本銀行『日本銀行百年史』第4巻 表1-21

砂糖は公定1.5倍に対し闇210倍——140倍の乖離。米は公定1.3倍に対し闇37倍で、28倍。1943年10〜12月の時点でも米は公定1.3倍・闇10.5倍、砂糖は公定1.4倍・闇30倍でした。 1年で闇価格がさらに数倍に跳ねています。

もっと痛烈なのは、日本銀行が自分で「本物の物価」を計算していたことです。

卸売物価(実際)卸売物価(公定)実際÷公定小売物価(実際)小売物価(公定)実際÷公定
1937年118.9120.698.6%108.6109.599.2%
1939年145.4140.5103.5%134.8140.595.9%
1941年184.2167.2110.2%204.1165.1123.6%
1943年266.5190.6139.8%312.3180.3173.2%
1944年325.0213.8152.0%390.0201.9193.2%

(1936年=100。日本銀行『日本銀行百年史』第4巻 表1-18。実際物価指数は敗戦間近の1944年に横浜工業経営専門学校の森田優三教授の指導で日本銀行が推計したもの)

敗戦の前年、日本銀行は自行の公表している公定物価指数が実勢を示していないことを認識し、 別に「実際物価指数」を推計していました。小売物価では実際が公定の1.93倍。統制価格は、統計の上でも現実から2倍近く離れていたわけです。

個人消費のピークは1937年だった

国民の側から見ると、この期間はこう見えます。

実質粗国民支出と個人消費(1934〜36年価格、百万円)。出典: 日本銀行『日本銀行百年史』第4巻 表1-19。原資料は大川一司ほか『国民所得』(『長期経済統計』1)

個人消費は日中戦争が始まった1937年がピークで、以後一貫して減り続けます。1944年には1937年の61%。粗国民支出のピークも1939年で、1940年に前年比マイナス6.6%を記録し、 以後は敗戦までほぼ停滞しました。

つまり統制経済は、生産を増やせなかったうえに、消費を削り続けました。

「金融業者が産業家を押へて居たが現在は其の地位が顛倒した」

制度が機能していない現場の空気は、日本銀行の内部会議の記録に残っています。 1943年4月の部局長支店長会議で、結城豊太郎総裁が述べた言葉です。

軍需会社等では資金はどうにでもなる、政府でも陸海軍でも金のことは心配して呉れるから 之はどうにでもなると云ふ風に思ふ。従つて出来た金を使ふにしても粗末にする傾向がある。余程理の上にて気楽な気分になつて居る。従つて銀行其の他の方面から制約を受けることを嫌ふ。 ……悪口を云ふ者は以前には金融業者が産業家を押へて居たが現在は其の地位が顛倒したと云ふ。 ……産業資金の供給に当る金融機関としては関係会社の経理を適正ならしむるやう 進んで口を出すやうに努力して行く必要がある。之には日本銀行当局等の指導が大切であらうと私は常に考へて居る

(結城豊太郎日本銀行総裁、1943年4月の部局長支店長会議。日本銀行『日本銀行百年史』第4巻)

ここには2つのことが同時に書かれています。

ひとつは統制の失敗です。国が資金を保証したので、企業は金を粗末にした。 日本銀行はこの傾向について「昭和19年に入って軍需融資指定金融機関制度が発足すると、 その傾向がむしろいっそう助長された。そして結果的にみれば本行もまたこれに対し、 効果的な手を打つことができなかった」と総括しています。

もうひとつは、メインバンク的な監視の原型が「取り戻したいもの」として語られていることです。 総裁は「金融機関は関係会社の経理に進んで口を出せ」と言っている。 これは新しい発明の提案ではなく、失われた規律の回復要求でした。

レイヤー② 組織と統治 — 所有と経営の分離が、国家に強制された

経済新体制確立要綱 — 「企業は民営を本位とし」

1940年12月7日、第2次近衛内閣が経済新体制確立要綱を閣議決定します。 起草の中心は企画院で、岸信介(商工次官)、星野直樹(企画院総裁)、 美濃部洋次(商工省)、秋永月三(陸軍)といった顔ぶれでした。

要綱の文言には、この時期の統治思想が凝縮されています。

要綱の文言含意
「公益優先、職分奉公の趣旨に従って国民経済を指導」企業の目的を利潤から公益へ置き換える
「企業は民営を本位とし国有化はしない。所有形態は変えない
「企業をして国家目的に従い其の創意と責任とに於て之を経営せしめ」経営は経営者に委ねる。ただし国家目的に従う限りで
適正なる企業利潤を認め」「投機的利潤及独占的利潤の発生を防止」利潤を否定はしないが、水準を国家が決める

(企画院「経済新体制確立要綱」1940年12月7日閣議決定。上記4項目は二次資料経由の引用です)

ただし要綱の「第二 企業体制」の項からは、より踏み込んだ文言が確認できます。

一、企業体制を確立し資本、経営、労務の有機的一体たる企業をして 国家総合計画の下に国民経済の構成部分として企業担当者の創意と責任とに於て自主的経営に任ぜしめ……

ハ、企業利益の分配に当りては適当なる制限を加うるも 其の超過部分は公債其の他を以て留保し一定条件に従い一定期間後に於て処分するの途を拓く

(「経済新体制確立要綱」第二 企業体制)

2つの点が重要です。

ひとつは「資本、経営、労務の有機的一体たる企業」という定義です。 企業を株主のものとせず、資本・経営・労働の三者が一体となったものと定める。 そして経営を委ねる相手は「株主」でも「取締役」でもなく「企業担当者」です。

もうひとつが「其の超過部分は公債其の他を以て留保し」です。 配当を制限したうえで、制限を超える利益は公債の形で強制的に留保させる。 会社経理統制令(1940年10月19日、勅令第680号)が実装したのは、この思想でした。「株主に配らず社内に留める」という日本企業の性格が、政策文書の中で明文になっています。

ここで注目すべきは「民営を本位とし」という一句です。 国は企業を国有化しませんでした。所有は民間に残す。 そのうえで経営の目的を差し替えたわけです。

会社経理統制令に置かれた条文は、それをさらに明示的に述べています—— 「会社は国家目的達成の為、国民経済に課せられたる責任を分担することを以て経営の本義とす」 (二次資料経由の引用、原文未照合)。

生産責任者は、株主ではなく国家に責任を負った

統治構造をもっとも露骨に書き換えたのが、1943年10月31日の軍需会社法(法律第108号、12月17日施行)です。

この法律は、指定した軍需会社に、商法上の役員とは別に「生産責任者」と「生産担当者」を置かせました。 生産責任者は会社全体について、生産担当者は現場について、政府に対して責任を負う。 そして政府が生産責任者の解任権を持ちました。

graph TD
  K["国家(政府・軍需省)"]
  S["生産責任者<br/>会社全体について国家に責任"]
  T["生産担当者<br/>現場について国家に責任"]
  KB["株主総会"]
  TB["取締役会"]
  B["軍需融資指定金融機関<br/>原則1軍需会社1行"]

  K -->|"任命・解任"| S
  K -->|"指示"| T
  K -->|"融資命令"| B
  S --> T
  KB -.->|"形式のみ"| TB
  B -->|"資金供給の責任"| S

  style K fill:#7f1d1d,stroke:#991b1b,color:#fff
  style S fill:#2563eb,stroke:#1d4ed8,color:#fff
  style B fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
  style KB fill:#1e1a2e,stroke:#3c365a,color:#7a7494
軍需会社法(1943)下の統治構造。株主総会と取締役会は形式として残るが、実質的な指揮系統は国家→生産責任者に移る。日本銀行はこれを「形式上は民有民営の形態を残しながら、実質的には国家管理を実施したもの」と評した。資金の側では軍需融資指定金融機関が同じ会社に紐づけられる。

第2章で、三菱が「社長ノ特裁」を規則の第1条に書いたことを見ました。 第3章で、持株会社が同族の支配権を100%守る装置だったことを見ました。 第4章で、三菱の分系会社が正員の採用権すら持たなかったことを見ました。

この章では、その頂点にいた同族と本社の上に、国家が乗ります。所有と経営の分離は、日本では株式市場の圧力ではなく、 まず戦時立法によって外から強制された——という読み方ができます。

指定は急速に広がりました。

時期指定累計
1944年1月18日第1次 150社(三菱重工業・中島飛行機ほか)150社
1944年4月第2次 424社——
1944年12月再追加 119社——
1945年3月ごろ指定取消・追加指定による増減を経て678社

さらに1945年1月27日の「軍需充足会社令」(勅令第36号)で、 地方鉄道・倉庫・土木建築等の11業種が軍需会社と同様の扱いになり、 軍需融資指定金融機関制度の適用対象は約3,000社に達しました。

統制会 — カルテルが国家機関になった

第4章で、1931年の重要産業統制法がカルテルを政府の管理下に置いたことを見ました。 その延長線上に、1941年8月30日の重要産業団体令(勅令第831号、9月1日施行)があります。

産業ごとに統制会(全国組織)と統制組合(地方の中小企業の組織)を設立し、 政府が人事・運営に強力な権限を持つ。 日本銀行の記述では、狙いは「政府→統制会→統制組合というピラミッド型支配を実現しようとするもの」でした。

統制会と対になる制度として、1943年10月18日に統制会社令(勅令第784号、即日施行)が公布されます。 本則49条。統制会社を 「国民経済ノ総力ヲ最モ有効ニ発揮スル為物資ノ生産……配給、輸出、輸入若ハ保管又ハ人若ハ物ノ運送ヲ為ス事業ノ統制ノ為ニスル経営ヲ目的トスル株式会社」と定義し、 「統制会社ハ其ノ商号中ニ統制ナル文字ヲ用フベシ」(第15条第1項)と定めました。

そして制定の背景として述べられている理由が、この章の主題そのものです。

本令制定前、統制会社が約600社に達していたが、法律上は商法上の株式会社に過ぎず、株主総会の発言権が強く利潤配当に汲々する事があった

(統制会社令の制定背景についての説明。二次資料経由の引用)

「株主総会の発言権が強い」ことが、解決すべき問題として名指しされている。第2章で日本にようやく株主有限責任が来て、第4章で株主が追加払込を請求される立場だったことを見ました。 その株主の声が、ここで邪魔なものとして扱われます。

電力国家管理 — 「人間のクズである」

統制がどう受け止められたかを示す、最もあからさまな事例が電力です。

1938年の電力管理法(法律第76号、4月6日公布)に基づき、 1939年4月1日に日本発送電株式会社が設立されます。 第4章で見た五大電力(東京電燈・東邦電力・大同電力・宇治川電気・日本電力)を含む各社が、 発送電設備を「現物出資」の建前で譲渡しました。

東邦電力の松永安左エ門は、この過程で官僚を「人間のクズである」と痛烈に批判したと伝えられます。 しかし軍部の圧力で隠退し、以後、正面から反対する勢力は消えました。

さらに1941年8月30日の配電統制令により、 1942年4月1日に全国470社超の配電事業者が統合され、9配電会社(北海道・東北・関東・中部・北陸・関西・中国・四国・九州)が発足します。 第4章で「電力戦」を戦っていた五大電力は、解散しました。

地域別に分割された9社体制という枠組みが、 戦後の9電力(沖縄を含めて10電力)体制に引き継がれることになります。

財閥本社が株式会社になった理由は、税だった

第4章で、「財閥転向」で公開されたのは傍系株だけであり、 三井鉱山の公開は1939年末、三井物産は1942年だったと書きました。 その理由をここで補います。

出来事主な動因
1937年住友合資会社を解散し株式会社住友本社を設立。三菱も三菱社へ改組1937年臨時租税増徴法(3月30日、法律第3号)による法人課税の引上げなど、戦時期の増税。無限責任の合資・合名のままでは同族の税負担が重くなった
1939年末三井鉱山の株式が直系会社として初めて公開される戦時下の大規模増資。内部資金では設備投資を賄えなくなった
1940年8月三井物産が三井合名を吸収合併。三井合名の資産は三井家の現物出資として承継される日中戦争後の傘下会社の資本金払込増加と、相続税など諸納税への対応
1942年三井物産の株式が公開される同上の延長

つまり、財閥が所有を開いた直接の動因は社会的批判でも資本市場の圧力でもなく、 税と資金需要でした。第3章で武田晴人の「持株会社の動機は危険分散と所得税の節約」という指摘を引きましたが、 税が持株会社を作らせ、税が持株会社を解かせた、という対称性がここにあります。

レイヤー③ 雇用と人事 — 年功賃金は、勅令で全国に広まった

第4章の結論は、「定着は始まったが、それは選別の副産物だった」でした。 1930年前後の賃金カットが長勤続を温存し、結果として勤続年数が処遇の基準になった。 ただしA・ゴードンは「年功的処遇が具体化したというのは誇張」と留保していました。

この章では、その留保が外れます。法令によって。

労働市場が凍結された

まず前提として、動けなくなります。

職業紹介所が国有化される

職業紹介法を改正し、職業紹介所を国有として戦略的重要産業へ労働者を送り込む体制を作った。第3章で見た友子同盟のような同職集団が担っていた職業紹介機能は、明治期にはギルドが、この時期には国家が持つことになる。

従業員雇入制限令・青少年雇用制限令

重化学工業等の技術者・熟練工の雇い入れに職業紹介所長の認可が必要になり、青少年の不急産業への雇入れが規制された。さらに「国民労働手帳」の保持・提出によるチェックの仕組みが設けられる。

国民職業能力申告令・国民徴用令

技術者等を登録させ、労務動員計画により軍需産業・生産拡大産業へ労働力を重点的・計画的に充足する仕組みへ。7月8日公布(勅令第451号)、7月15日施行。

労務調整令 — 転職と退職が禁止される

太平洋戦争開戦当日に公布(勅令第1063号)、1942年1月施行。「青少年雇入制限令」と「従業員移動防止令」を一本化したもので、それまで工場を辞めて農業・商業などへ転職することは可能だったが、この勅令により自由な転職・退職がすべて禁止された。使用者側の恣意的な解雇も制限されている。1945年3月の国民勤労動員令(勅令第94号)に統合されて廃止。なおJILPT資料はこの令を「労務需給調整令」(1942年1月実施)と表記しており、名称に揺れがある。

第3章で見た明治期の「渡り職工」、第4章で見た「離職率40〜100%」の世界は、 ここで法的に終わります。転職の自由がなくなれば、定着率は上がります。当然です。

賃金統制令の二段階 — 「抑制」から「生活の安定」へ

賃金統制はもっと踏み込みました。しかも性格が途中で変わります。

第一次賃金統制令(1939年)第二次賃金統制令(1940年)
目的インフレと労働移動の抑制労働生産性の向上と、その前提となる生活の安定
内容重工業等の産業の初任給の抑制。さらに「賃金臨時措置令」により1年間の賃金凍結①生活の安定のための最低賃金と経験工最高初給賃金(性・年齢・地域別等)の設定 ②賃金総額の制限と平均時間割賃金の公定
性格上限を押さえる賃金制度そのものに踏み込む

(草野隆彦『雇用システムの生成と変貌 Ⅰ 戦前期の雇用システム』JILPT資料シリーズNo.199-1、2018年)

1939年の統制は「賃金を上げるな」でした。 ところがインフレによる生活難から労働移動が止まらない。 そこで1940年の第二次統制令は、「単なるインフレ策を超え」て、 生活の安定を賃金制度の目的に据えます。

年齢と家族数に応じて賃金を払うという「生活給」の思想が、ここで国家の政策になりました。

1943年6月には政府の中央賃金専門委員会が「賃金形態に関する指導方針」を出し、 こう明記します——「賃金は労務者及其の家族の生活を恒常的に確保すると共に勤労業績に応ずる報償たるべきものとす」。定額給を基本に、年齢と勤続年数に応じて定額給を決める方向です。 同方針は職員と同じ「工員月給制」も提唱しました。

1942年、昇給が「年2回・全労働者」と定められた

そして決定的な勅令が来ます。

1942年になると、勅令として職員及び工員共通に適用される「重要事業場労務管理令」を制定し、 基幹産業について同管理令に基づく運用方針及び記載例を作成し、労務管理の細部まで介入した。 特に昇給の仕組みについて、運用方針・記載例は、年2回、全労働者を対象とするとし、 平均昇給率を定めるとともに、昇給額は最高と最低の範囲内であるべきことを規定した。これによって、勤続による定期昇給の仕組みと年功序列賃金が全国的に広まったとされる。

(草野隆彦、前掲JILPT資料シリーズNo.199-1)

ここには2つの重要な要素があります。

  • 「職員及び工員共通に適用される」——第4章で見た「社員/準社員/工員/組夫」という身分制の、少なくとも制度上の壁がここで動く
  • 「年2回、全労働者を対象とする」昇給——第4章でゴードンが「昇給は選別的・恣意的かつ不定期な場合が多かった」と言っていたその3点が、すべて否定される。定期化し、全員に及び、率が定められる

定期昇給という仕組みは、企業が編み出したのでも労使が交渉して決めたのでもなく、 戦時の勅令とその運用指針によって全国に広まった——これが実証研究の整理です。

家族手当は、賃金統制の抜け道として生まれた

日本の給与明細には、基本給のほかに家族手当・住宅手当・通勤手当などが並びます。 なぜこんな構成なのか。答えは、統制の設計ミスです。

戦時賃金制度の特徴として、家族手当、住宅手当、物価手当などの複雑な手当制度の普及がある。 1937年から1940年にかけての急激なインフレの進行の中で賃金統制法令が手当を適用除外としたことから、 賃金引き上げの簡便な方法として各種手当が支給された。さらに、重要事業場労務管理令が、各種手当に係る記載例を示し 半ば強制的な指導によって諸手当が賃金の構成要素として定着した。

(草野隆彦、前掲JILPT資料シリーズNo.199-1)

賃金の上限は決められた。しかし手当は対象外だった。だから手当で払った。 そして抜け道として始まったものが、国の指導で「賃金の構成要素」として制度化されました。

技能形成が、企業の法的義務になった

第4章で、養成工制度が大戦後に本格普及したことを見ました。 三菱工業予備学校(1899)、八幡製鉄所幼年職工養成所(1910)、日立製作所の徒弟養成所(1910)。 企業が自前で技能工を育てる仕組みです。

1939年3月、工場技能者養成令がこれを義務にします。

項目内容
対象年齢16歳以上の男子を常時200人以上雇用する工場または事業場
義務命令をもって3年間の技能者の養成を行わせる
人数毎年、厚生大臣が事業ごとに定める比率を当該事業場の労働者数に乗じて得た員数
評価「実績は、それまでの工場徒弟制度に比べ内容・方法において本格的・組織的なものであり、養成修了者は量的・質的両面で戦時における機械工業の基幹労働力としての役割を果たした

(草野隆彦、前掲JILPT資料シリーズNo.199-1)

第3章で見たとおり、明治期に技能認定・職業紹介・失業給付を担っていたのは 企業ではなく友子同盟という同職集団でした。それが企業に移り、この令で法的義務になります。「日本企業は社員を育てる」という特徴の制度的な起点のひとつが、ここにあります。

産業報国会 — 議長は事業主側だった

労使関係はどうなったか。第4章で、1921年に3万人が横断組合を求めて敗れ、 組織率は1931年の7.9%が戦前の頂点だったと書きました。

1938年8月、厚生・内務両次官から各地方長官への通牒により、全国各地に産業報国会が組織されます。 1940年11月23日には大日本産業報国会が結成され、1941年時点で全国に約26,000の単位産業報国会がありました。 そして日本労働総同盟は1940年に自主的に解散します。

事業場ごとの産業報国会には「事業一家の発想に立った労資懇談会」が設けられ、 能率増進・待遇・福利・共済等について 「隔意ナキ懇談ヲ遂ゲ相互ノ完全ナル理解ト協力ヲ実現」することが期待されました。

実態はどうだったか。JILPTの整理は、両面を書いています。

評価内容
実質はなかったという面「懇談会の中身は実質が伴わず、労働者代表は会社の指名で議長は事業主側となり、青少年指導、福利厚生等が話し合われるに過ぎない場合が多かった」
それでも残したものがあるという面「労使意思疎通によって労働者の不満の解消をはかり生産性向上の実を挙げた例も存在し、戦後間もなくの時期に、職場を中心に、職・工一体の企業別組合が結成された背景として、こうした産業報国会の影響を指摘する意見が有力である

「議長は事業主側」がどの程度だったかは、数字で残っています。 103の産業報国会を対象にした調査では、労務者委員の選任方法は使用者の指名制が72%、公選制が10%、両者の組み合わせが18%。 自由発言を許したのは54%でしたが、議長は事業主側で事前の提案も少なく、 待遇改善について発言する余地は実質的にごく限られていました。

規模だけを見れば、これは前例のない組織化です。

組織労働者数の比較(出典: 草野隆彦、JILPT資料シリーズNo.199-1)

そして産業報国会は、戦争末期には機能を止めていた

ここも「制度が作られたこと」と「制度が機能したこと」を分ける必要があります。 産業報国会には、はっきりした終わりがありました。

軍隊に倣った「部隊組織化」

単位産業報国会が部隊組織に編成され、職場別の最下部単位として「五人組」が置かれる。労使協議の組織から、動員の単位へ性格が移っていく。

大政翼賛会に吸収され、配給機関になる

大政翼賛会の発足に伴い産業報国会はその運動に吸収され、生産物資の配給機関に過ぎなくなった。

軍需会社法により、産報と懇談会は排除される

重要事業場令による労務官事務所の管轄が厚生省から軍需省に移り、軍需会社法の生産責任者体制のもとで産報・懇談会は排除され「開店休業状態」になる。労働争議の件数は急増したにもかかわらず、単位産報は争議の未然防止の役割を果たせなかった。

解散

9月に大日本産業報国会が自発的解散、12月までに県産報・単位産報も解散した。

労使一体の組織として設計されたものが、動員の単位になり、配給機関になり、 最後は生産責任者制度に排除されて開店休業になる。「産業報国会が企業別組合の母体になった」という説を評価するとき、 この末期の空洞化を差し引く必要があります。

(草野隆彦、前掲JILPT資料シリーズNo.199-1)

「職・工一体」という点が重要です。 第4章で見た身分制——社員は月給、工員は日給、福利厚生はほぼ関係なし——を、 産業報国会は少なくとも組織の形の上では横断しました。 そして戦後の企業別組合が職員と工員を同じ組合に入れる(工職混合組合)ことになる。

ただし、これを「産業報国会が企業別組合の起源だ」と単純に言えるかは別です。 金子良事「工場委員会から産業報国会へ:企業別組合生成の論理」(2014)のように、大正期の工場委員会(労使協議制)からの系譜を重視して 戦時期を単独の起点としない研究もあります。この点は章末で扱います。

下請 — 「協力」という言葉が政策に入った

1940年12月、親工場と子工場が直結した

第4章で見た「組夫」は、下請会社の従業員で待遇最下層の存在でした。 つまり戦間期の「下請」は、主に労務の供給を意味していました。

それが部品加工の系列関係に変わる転換点を、植田浩史が特定しています。

自動車製造事業法

第4章で見たとおり、これによりフォード・GMが締め出され、日産・豊田の2社体制になる。国産化は部品の国産化を必要とした。

商工省「自動車部品製造業確立方策」

商工省が部品業者を指定し、国産メーカーに対して指定工場への発注と、下請部品業者の「培養」——資金貸付・技術指導——を求めた。「育てて使う」という発想が政策に入る。

優良自動車部分品及自動車材料認定規則(商工省令)

部品の品質を国が認定する仕組み。

機械鉄鋼製品工業整備要綱 — 専属化への転換

それまでの下請政策は県レベルの工業組合を軍需発注の受け皿に組織化する「地方統制工業政策」が中心だった。この要綱がそれを転換し、親工場と子工場の直接的な専属関係(指定制度)に重心を移す。「親工場は子工場の技術指導その他の面倒を見ると共に子工場は親工場の仕事に専心協力する体制」という考え方で、ここで「協力」という概念が下請政策に導入された。

(植田浩史「1930年代後半の下請政策の展開」『季刊経済研究』16巻3号、大阪市立大学、1993年12月)

日立亀戸工場は、指導員8名と指導工60名を巡回させた

政策が現場でどう実装されたか。 植田が企画院財務部への回答から作成した表に、1937〜38年頃の実態が残っています。

企業下請工場数外注依存度特徴
大隈鉄工所約100社(一次70・二次30)生産額の25%うち21社は大隈の元職工の独立
大阪機械工作所約105社(鋳物14・部分品76・他25)約20%——
住友金属工業(プロペラ)——30%(将来50%目標1937年7月に下請工場培養方針を決定。専属/非専属で価格方式を区別(指定価格制/見積制)
日立製作所 亀戸工場加工外注250社(専属)、鋳物40〜50社、仕上外注50社(非専属)——専属指導員(職員8名)・専属指導工(職工60名)が巡回指導

(植田浩史、前掲論文 第1表「1937・8年頃の民間大工場の下請関係」)

専属と非専属で価格の決め方を変える。指導員を巡回させる。元従業員を独立させて下請にする。第7章で扱うトヨタ生産方式のサプライヤー管理に出てくる要素が、 1937〜38年の時点で、すでにこの形で存在しています。

トヨタ協豊会は1943年に生まれ、名前を変えて今も続く

戦後への連続性がもっともはっきり追える事例がトヨタです。 公式の75年史に年表が残っています。

トヨタ自動車工業に購買係が設立される

会社設立は同年8月28日。調達の組織はほぼ同時に立ち上がった。

「トヨタ自動車下請懇談会」開催 → 協力会が発足

参加は18社。この時点の名称は「協力会」で、1940年12月の機械鉄鋼製品工業整備要綱が「協力」概念を政策に導入するより1年早い。

協力会が発展的に解消し、協豊会が発足

戦時下、軍需会社法が公布された2か月後にあたる。

東京協豊会・関西協豊会が発足、協豊会は東海協豊会に改称

敗戦をまたいで組織は解散していない。1957年に東京協豊会は関東協豊会へ改称。1999年に3地区を統合して新協豊会が設立される。

(トヨタ自動車「75年史」より)

1943年12月に発足した組織が、改称を重ねながら現在まで続いています。戦時起源説にとって、これは非常に強い事例です。

植田浩史は「計画通りに進むことなく敗戦を迎えた」とする

下請制の戦時起源説について、この分野をリードしてきた研究者自身の評価を引きます。

日本の下請制は、戦時統制期に拡大したが、本格的な展開を遂げたのは高度成長期である。……戦時経済は、政策的に中小企業の層から「協力工場」が「選抜され,囲い込まれ,育成され」る システムを作り上げようとしたものであったが、計画通りに進むことなく敗戦を迎えた。一方,高度成長期は,政策ではなく,機械工業の発展の中で…… 下請企業が「選抜され,囲い込まれ,育成され」ていった

(植田浩史「日本における下請制の形成:高度成長期を中心に」『三田学会雑誌』101巻4号、2009年1月)

「種は撒かれたが、花は高度成長期に咲いた」。これがこの分野の実証研究の到達点に近いところです。 第7章で、その続きを扱います。

最も強い反論 — 1945年から47年に、年功制は機能しえたか

ここまで本章は、制度が作られたことを一次資料で示し、 それが機能しなかったことも同じ一次資料で示してきました。 最後に、戦時起源説に対するもっとも直接的な反論を置きます。

労働史研究者の二村一夫は、問いをこう立て直します。

では、1945年末から47年にかけて戦後労働組合があいついで誕生した時に、果たして日本の労働市場は企業別に分断されていたでしょうか。 また終身雇用制や年功制がこの時期に実質的な意味をもっていたでしょうか。 とてもそうは言えないと考えます。

(二村一夫「企業別組合の歴史的背景〈補訂版〉」法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』No.305、1984年3月)

論拠として二村が挙げるのは、この時期の労働市場の状態です。

  • 700万人の徴兵
  • 軍需生産拡大に伴う人手不足を、徴用・動員学徒・女子挺身隊・強制連行労働者の大量投入で埋めていた
  • 敗戦後の軍需工場閉鎖と自発的離職を合わせ約400万人規模の失業、これに復員者700万人が加わる
  • 物価が「10倍、20倍、30倍」に上昇する大混乱

千数百万人が職を求めて動き、物価が数十倍になる状況で、 「勤続年数に応じて賃金が上がる」という仕組みが人を引き留める力を持ちえたか。二村の答えは「持ちえなかった」です。

この反論の重要な点は、制度の存在を否定していないことです。 1942年の重要事業場労務管理令は確かに存在しました。 二村が否定しているのはその制度が1945〜47年の時点で実質的に作動していたということです。 そして戦後の労働組合が企業別に組織されたのは、 戦時に労働市場が企業別に分断されていたからではない、と論じます。

本章がこの章の冒頭で「両側から答える」と書いたのは、この構造を指しています。制度は戦時に作られた。しかしそれは戦時に機能せず、敗戦直後にも機能しなかった。 では、いつから機能したのか。——それが第6章と第7章の問いになります。

断定を避けるべき論点

この章は「1940年体制論は正しいのか」を軸に据えました。 結論を言えば、この問いは3つの独立した問いに分解しないと答えられません。

graph TD
  Q["1940年体制論は正しいか"]
  A["軸1: 制度の起源はいつか"]
  B["軸2: 連続性はどれだけ強いか"]
  C["軸3: 戦時統制は機能したのか"]
  A1["戦時単独 / 大正期からの長期形成 / 占領期と高度成長期の再編が規定的"]
  B1["戦時=戦後で本質同一 / 断絶と再編を経た緩やかな継承"]
  C1["制度は機能した / 制度はあったが計画は破綻"]

  Q --> A
  Q --> B
  Q --> C
  A --> A1
  B --> B1
  C --> C1

  style Q fill:#2563eb,stroke:#1d4ed8,color:#fff
  style A fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
  style B fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
  style C fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
「1940年体制論」の評価は3つの独立した軸に分解できる。3軸すべてで「戦時起源・強い連続・機能した」と答える立場は、実証研究の中では少数である。
論点A説B説状況
1940年体制論そのもの野口悠紀雄『1940年体制』(1995): 企業・金融・官民関係・労使関係の骨格は1940年前後に形成され、戦後もほぼそのまま存続して高度成長を支えた。「高度経済成長は、戦時体制によって実現された」橘川武郎(1998): 市場主義的な改革論には「①前提とする戦後観に難点がある、②既存システムを全否定してそのメリットを棄却する危険性がある」。対案として「危機対応の経営史」——日本企業システムは戦時起源ではなく、戦後の危機(資金不足・労働争議・国際競争)への対応を重ねる中で内生的に形成された未決着。野口の議論は経済学者による強いバージョンで、経営史・実証経済史からは各論で相当に相対化されている。宮本光晴「『1940年体制論』は誤りだ」(1995)のような正面批判も存在する
起源説の精緻さ岡崎哲二・奥野正寛編『現代日本経済システムの源流』(1993): 個別制度(メインバンク・下請制・労使関係・産業政策)について「戦時期に原型が作られ、占領改革を経て高度成長期に定着・洗練された」という二段階モデル——岡崎らのモデルは野口の単純化より精緻で、経済学(制度分析)側では比較的優勢とされる。ただし本章の立場では、これも軸3(機能したか)の検証を前提にしていない
メインバンク制の起源岡崎哲二: 軍需融資指定金融機関制度(1944)が起源。特定銀行に特定軍需会社への融資を割り当てた制度が戦後に連続したAoki, Patrick, Sheard編『The Japanese Main Bank System』(1994): 起源より「情報生産・モニタリング機能としてなぜ合理的か」を重視し、起源論には距離を置く。寺西重郎はより長い歴史的過程に位置づけ、戦時期一時点への起源付けに慎重「戦時期に萌芽があった」ことは広く認められる。本章が示したとおり日本銀行自身が「戦後に引き継がれた」と書いている。ただし1944年に役員派遣案が「支配に見える」として却下されている事実は、戦時期に制度が完成していなかったことも示す
下請制・系列の起源岡崎哲二編『生産組織の経済史』(2005)所収の加賀見一彰論文ほか: 戦時政策による組織化が起源植田浩史(2009): 「戦時統制期に拡大したが、本格的な展開を遂げたのは高度成長期」「計画通りに進むことなく敗戦を迎えた」植田の段階論が実証研究の到達点に近い。ただしトヨタ協豊会(1943年発足→改称のみで現在まで継続)のように断絶のない事例も存在する。日産宝会は戦時起源が確認できず、事例間の差が大きい
産業報国会と企業別組合昭和同人会編(1960): 「戦後の労働組合が圧倒的に『企業別組織』となり、職員・工員丸抱えのユニオンショップで組合費の天引きにより財政的に成立し、企業の福利厚生に依存している事情は、そっくりそのまま戦時中の『産報組織』をひきついだものに他ならない」。大河内一男(1971)も、理念は全く異なるが戦後組合は産報の基盤と組織のうえに急速に勢力を拡大できたとする仁田道夫(2008): 連続説は「過大評価」としつつ、「全く手がかりのない状況のもとで急激に労働組合を組織し、運動を展開するには、産報程度の組織でも手がかりとなりえた」と限定評価。金子良事(2014)は大正期の工場委員会からの系譜を重視し、戦時期を単独の起点としない未決着。JILPT自身が「産業報国会の果たした機能については、なお、定まった評価はない」と結論している。産報の機能評価自体も肯定(孫田1965、塩田1982、大河内1971)と否定(ゴードン2012、西成田1988)に分かれ、近年は岡崎(2005)が産報の発言機能を定量的に実証して一定の寄与を指摘する
雇用制度の戦時起源説の実証水準野口悠紀雄『1940年体制』(1995)が雇用制度も戦時起源に含める二村一夫(1984): 「1945年末から47年にかけて戦後労働組合があいついで誕生した時に、果たして日本の労働市場は企業別に分断されていたでしょうか。また終身雇用制や年功制がこの時期に実質的な意味をもっていたでしょうか。とてもそうは言えない」。約700万人の徴兵、約400万人の失業に復員者700万人、物価が10〜30倍という状況で年功賃金が人を引き留める力を持ちえなかったとする。野村正實『終身雇用』(1994)も離職率統計から懐疑的に再検討野口の本は財政学・金融論が専門で、雇用制度への言及は他分野に比べ実証的根拠が薄く、通説を要約的に引用する形にとどまる。菅山真次『「就社」社会の誕生』(2011)は新卒一括採用の制度化を1925〜1970年の長期連続過程として描き、兵藤釗(1971)も内部昇進・養成工・企業内福利を大正期以降の長期過程として跡づけ、いずれも戦時期を単独の起点としない
戦時統制の実効性制度が整備された=機能する仕組みができた(1940年体制論の暗黙の前提)原朗『日本戦時経済研究』(2013)ほか: 物資動員計画・生産拡充計画の計画値と実績値のギャップを史料で示す実証研究の系譜本章はB説の側に立つ根拠を一次資料で示した。鋼材生産は1938年水準を一度も超えず、鉱工業生産の伸びは統制前の1.64倍から統制下の1.44倍へ低下し、1944年の闇価格は公定価格の米で28倍・砂糖で140倍。日本銀行自身が「政府の生産計画を達成できなかったケースが多かった」と記す
革新官僚と統制思想佐藤正志(2014)ほか: 岸信介らはドイツの産業合理化運動・ナチス統制経済思想の影響を受けた担い手であり、満州での統制経済実験が戦後日本に「逆輸入」された——思想史・政治史の側から見た起源論として、制度連続説と並走する。ただし「満州での実験が戦後成長にどこまで因果的に効いたか」は研究動向レビュー(2009)の時点でなお論争中。要検証

現代への接続

この章で作られたもののうち、何が今も残っているかを整理します。この章は、シリーズ全体でもっとも「残ったもの」が多い章です。

この章で作られたもの現代における姿連続性の性質
産業資金の借入依存(株式38.8%→9.1%、貸出9.2%→58.3%)間接金融中心の企業金融直接連続。日本銀行自身が「戦後に引き継がれ、戦後におけるわが国金融構造の特色として定着した」と記す
軍需融資指定金融機関制度(1944、原則1軍需会社1行)メインバンク制連続。ただし1944年に役員派遣案が「支配に見える」と却下されており、戦時期には未完だった。制度としての完成は戦後
都市銀行への貸出集中(1936年48.3%→1944年75.2%)都市銀行/地方銀行という業態区分、メガバンクの位置直接連続
内国為替集中決済制度(1943年8月2日)銀行間の為替決済(振込)の仕組み直接連続。日本銀行が「現行為替決済制度の原型となったものである」と明記
日本興業銀行の産業金融(興業債券が1936→1944年で23.4倍)——(1999年に第一勧業・富士と統合、2002年みずほへ)戦後の長期信用銀行体制へ連続。日本銀行は「戦後の産業金融における活躍の基盤を作り上げた」と評価
給与所得の源泉徴収(1940年4月1日)源泉徴収・年末調整直接連続。ただし公債・社債利子への源泉徴収は1899年から存在し、1940年に新しかったのは給与への拡大
会社経理統制令(1940)— 配当を制限し福利厚生費の枠を拡充企業内福利厚生の厚さ、「株主より従業員」という配分感覚断絶を挟む連続。法令は廃止されたが、配分の型は残った
重要事業場労務管理令(1942)— 昇給は年2回・全労働者定期昇給、年功序列賃金直接連続。JILPTの整理では「これによって勤続による定期昇給の仕組みと年功序列賃金が全国的に広まったとされる」
第二次賃金統制令(1940)の生活給思想年齢・家族構成を考慮した賃金、生活保障的な処遇観迂回した連続。戦時期には「民間事業者の抵抗」と能率給の普及により実現に至らず、戦後の電産型賃金が「その生活給の考え方や算定技術を引き継いだ」。国家の政策が直接残ったのではなく、労働組合の要求を経由して届いた。Deep Dive HR「人事制度の三本柱」第5章 報酬制度で扱う現代の報酬設計の前提になっている
第二次賃金統制令(1940)の総額賃金規制ベースアップ、人事院の官民給与比較方式直接連続。総額賃金・ベース賃金の考え方が「戦後の物価算定のための業種別平均賃金の算定、さらには2,900円ベースなど公務員給与算定の基礎となり、組合のベースアップ要求方式や人事院の官民給与比較方式など幅広く活用されることとなった」(JILPT)
労働者年金保険法(1941)→厚生年金保険(1944に改称)厚生年金直接連続。1941年は従業員10人以上の工鉱運輸業の男子のみが対象だったが、1944年に女子・事務職員へ、事業所も5人以上へ適用拡大された。第4章で見た「失業保険ではなく企業の退職金で備える」という分岐の続きで、公的年金の側も戦時に作られている
家族手当・住宅手当・物価手当(賃金統制の適用除外を利用)各種手当が並ぶ給与明細直接連続。抜け道として始まり、国の指導で賃金の構成要素として定着した
工場技能者養成令(1939)— 3年間の技能者養成を義務化企業内教育訓練、OJT中心の技能形成断絶を挟む連続。法的義務はなくなったが、企業が技能形成を担う分業は残った
産業報国会(1938→1940、約26,000単位)と労働組合の解散企業別組合(工職混合組合)議論あり。「影響を指摘する意見が有力」だが、大正期の工場委員会からの系譜を重視する研究もある。詳細は第6章で扱う
労働移動の禁止(従業員雇入制限令1939、労務需給調整令1941)——断絶。ただし「動けない労働市場では定着率が上がる」という関係は、現代の流動性の議論にも通じる
機械鉄鋼製品工業整備要綱(1940年12月)の専属化・「協力」概念系列・サプライヤーシステム、協力会組織段階的な連続。植田浩史は「戦時統制期に拡大したが、本格的な展開を遂げたのは高度成長期」とする。第7章で続きを扱う
トヨタ協豊会(1943年12月発足)新協豊会(1999年に3地区統合)直接連続。ただし日産宝会は戦時起源が確認できず、事例差が大きい
統制会(1941)と業界団体業界団体、行政指導断絶を挟む連続。統制会は解散したが、産業ごとの団体を通じた官民調整の型は残った
電力の9配電会社体制(1942年4月1日)地域別の電力会社(9電力/10電力体制)直接連続。日本発送電は1951年に解体されるが、地域分割の枠組みは引き継がれた
日本銀行法(1942年2月24日公布)——(1997年に全面改正)驚くほど長く残った。「国家目的ノ達成」を掲げた戦時の日銀法が、55年間使われた

レイヤーごとの答えです。

  • ① 資本と所有:直接金融から間接金融への転換が、8年で完了した。産業資金に占める株式は1934〜36年平均の38.8%から1944年の9.1%へ、貸出は9.2%から58.3%へ。一般会社債は71.9%から11.2%へ落ち、起債市場は「事実上市場の機能を喪失し、債券発行も金融機関貸出と同様、統制的資金配分の一手段になった」。軍需融資指定金融機関制度が「原則として1軍需会社1行」で銀行と企業を紐づけ、都市銀行の貸出シェアは75.2%に達した。日本銀行は自らの正史に「それらの多くは戦後に引き継がれ」と書いている
  • ② 組織と統治:所有と経営の分離が、国家によって強制された。経済新体制確立要綱は「企業は民営を本位とし」としながら経営の目的を公益に差し替え、軍需会社法は商法上の役員とは別に生産責任者を置いて政府に解任権を与えた。日本銀行の評価は「形式上は民有民営の形態を残しながら、実質的には国家管理を実施したもの」。ただし要綱を書いた企画院の官僚17名は、翌年に治安維持法で検挙されている
  • ③ 雇用と人事:年功賃金は、勅令とその運用指針によって全国に広まった。1942年の重要事業場労務管理令は職員と工員に共通して適用され、昇給を「年2回、全労働者を対象」と定めた。第4章でゴードンが「選別的・恣意的かつ不定期」と評した昇給の3つの性質が、すべて否定されている。家族手当・住宅手当は賃金統制令が手当を適用除外にした抜け道として生まれ、国の指導で賃金の構成要素になった。同じ1940年、会社経理統制令は配当を制限しつつ福利厚生費の枠は拡充している

そして、この章がもうひとつ示したことがあります。

制度が作られたことと、制度が機能したことは別です。鋼材生産は1938年の水準を一度も超えず、鉱工業生産の伸びは統制前の1.64倍から統制下の1.44倍へ落ち、 個人消費は1937年をピークに減り続けました。 1944年の闇価格は公定価格の米で28倍、砂糖で140倍。 日本銀行は敗戦の前年に自行の公定物価指数が実勢を示していないことを認め、別に「実際物価指数」を推計しています。

この章で作られたのは、うまく回る仕組みではなく、戦後に流用できる部品でした。

次章では、その部品が解体と再編にかけられます。 持株会社整理委員会(1946)が30の財閥本社と42の持株会社を解散させ、 独占禁止法(1947)と過度経済力集中排除法が財閥を分割する。 労働三法が成立し、産業報国会の組織を引き継いだ形で企業別組合が生まれ、二・一ゼネストの労使攻防が起きます。 経団連(1946)と日経連(1948)が結成され、傾斜生産方式が始まる。 そして解体されたはずの財閥が、銀行を核とした企業集団として再結集していきます。この章の部品のどれが残り、どれが捨てられたのかを、そこで確かめます。

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Q1

日本の産業資金供給に占める「株式」と「貸出」の比率は、1934〜36年平均から1944年にかけてどう変化しましたか?

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