器はできた。次に来たのは、危機だった
第3章までで、日本は「会社」という器を輸入し(第2章)、持株会社という資本の集約装置を発明し、 紡績・鉄道・製鉄を立ち上げました(第3章)。 1909年に三井合名会社ができ、1911年に工場法が公布され、制度の骨格はひととおり揃います。
この章が扱うのは、その骨格に危機が繰り返し打ち込まれた22年間です。 1914年に第一次大戦が始まり、1936年に二・二六事件で高橋是清が殺される。 その間に日本は、債務国から債権国になり、株が暴落し、都が焼け、銀行が並んで潰れ、 金本位に戻ってすぐ離脱します。
ただ、この章の主役は事件ではありません。制度です。そして最初に扱うのは、たぶんあなたが聞いたことのない制度——株式分割払込制度です。
第2章で、1893年7月1日にようやく株主有限責任が日本に来た、と書きました。 ところが戦前の株主は、私たちが思う意味では有限責任ではありませんでした。 会社は、株主に「まだ払っていない分を払え」と請求できたのです。取締役会の決議だけで。
戦間期の年表 — 危機は3〜5年おきに来た
第一次世界大戦 勃発
開戦時の日本は約11億円の対外債務を抱える債務国で、正貨保有高は約3億4,000万円だった。同年12月、三井物産を辞めた内田信也が資本金25万円(払込12.5万円)で内田汽船を設立する。
内田汽船、下期に60割配当
総収入58万5,000円のうち利益40万2,000円、配当37万5,000円で配当性向93.2%。用船料は開戦時の「重量トン1か月1円」から大戦末期には50円へ、約50倍に高騰した。金子直吉が高畑誠一に宛てた「天下三分の宣誓書」も、鈴木商店記念館の解説はこの年の執筆とする。
三菱、分系会社化を開始
11月1日に三菱造船・三菱製鉄が開業。翌1918年に三菱商事・三菱鉱業、1919年に三菱銀行、1920年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機が続く。「分系会社」という呼称はこの年刊行の名簿で公式に使われた。三菱商事が1918年設立である事実は、後述する鈴木商店の通説を崩す。
米騒動 → 原内閣
神戸の米価は1升あたり8月1日の40銭7厘が8日には60銭8厘。寺内内閣は9月20日に総辞職を決め、9月29日に初の本格的政党内閣である原内閣が発足する。同年3月7日、松下幸之助が松下電気器具製作所を創業。
戦後恐慌 — 株価暴落
東京・大阪の株式取引所で暴落。株価は半値から3分の1へ落ち、東京は16・17日と2日間立会停止。内田信也は暴落直前に全世界の支店へ「恐慌近し、手持品全部売払え」と電命した。一方この年、日本の対外債権は27億7,000万円超に達している。久原鉱業日立鉱山の修理工場から日立製作所が分離独立したのもこの年。
川崎・三菱神戸造船所争議
川崎3社・三菱3社の約3万人が参加した戦前最大の労働争議。横断組合の承認と団体交渉権の確認を求めたが、軍隊出動を含む弾圧と会社側の強硬姿勢の前に8月9日無条件就業、12日に惨敗宣言。幹部約200名が検挙され、各職場の活動家が解雇された。同年、友愛会系の組織が日本労働総同盟に改称し、住友合資会社が設立される。
関東大震災 → 震災手形
9月27日、日本銀行震災手形割引損失補償令が公布され、日銀が震災手形を再割引し損失を政府が1億円まで補償することとなった。割引総額は最終的に4億3,081.6万円(手形3億9,167万円+預金証書3,914万円)。同年10月、日本窒素肥料が延岡でカザレー法によるアンモニア合成の試運転に成功する。
工場法改正の施行と、震災手形の残骸
7月1日、1923年改正工場法が施行。16歳未満と女子の11時間超労働禁止、午後11時〜午前5時の深夜業禁止が入る(深夜業禁止の完全実施は1929年7月)。4月9日には治安警察法17条が削除され、労働争議調停法が公布された。そして12月末、震災手形の未決済残高は2億680万円(未決済率48.0%)で、うち台湾銀行が1億35万円を占めていた。
片岡失言 — 昭和金融恐慌の始まり
衆議院予算委員会で片岡直温蔵相が東京渡辺銀行の破綻に言及。翌15日に同行とあかぢ貯蓄銀行が休業する。3月25日に台湾銀行が鈴木商店への新規貸出停止を決定して翌26日に通告、4月1日にこの絶縁が新聞報道され、4月5日に鈴木商店が事業停止・清算に至る。4月8日に六十五銀行(鈴木系)が休業、4月17日に台湾銀行救済の緊急勅令案が枢密院で否決されて若槻内閣が倒れ、4月18日に台湾銀行、4月21日に十五銀行が休業、4月22日にモラトリアム勅令(実施は4月25日〜5月12日)。3月30日には銀行法が公布されている。
銀行法施行、日本産業への改称、就職協定
1月1日銀行法施行。最低資本金は原則100万円、東京・大阪に本店を置く銀行は200万円(既存行に5年の猶予)。同年、経営危機に陥っていた久原鉱業が鮎川義介のもとで日本産業へ改称。そして企業と大学の間で採用時期の申合せ——就職協定——が成立する。
「大学は出たけれど」と、豊田の特許譲渡
小津安二郎の同名映画が9月に公開。大学・専門学校卒業者の就職率は約30%だった。12月21日、豊田喜一郎が渡英し、G型自動織機の特許権をプラット社に総額10万ポンド・4回分割で譲渡する契約を締結。ただし世界恐慌で支払いが滞り、1934年7月に未払分6万1,500ポンドを4万5,000ポンドに減額して決済された。
金解禁(旧平価)
浜口内閣・井上準之助蔵相のもとで実施。石橋湛山・高橋亀吉らが唱えた新平価解禁論は退けられた。同年6月、大分セメントが時価20銭の新株に1株6円50銭の払込を請求する。11月には白木屋・大日本製糖が払込を徴収。恐慌下の資金調達手段は、増資ではなく「まだ払っていない株金」だった。
金輸出再禁止 — 高橋財政へ
犬養内閣で高橋是清が蔵相に就任し断行。管理通貨制度へ移行する。同年4月1日には重要産業統制法が公布(施行8月11日、1934年5月までに24産業を指定)、9月の英国金本位制離脱後には財閥のドル買いが「国賊」と攻撃された。労働組合の組織率はこの年の7.9%(36万9,000人)が戦前の最高値である。
団琢磨 暗殺
三井合名会社理事長の団琢磨が三井本館入口で血盟団員に射殺される。同年2月には前蔵相の井上準之助も暗殺されていた。この年、失業率は6.9%でピークに達し、普通銀行数は538行まで減る。企業の長期資金調達に占める株式追加払込のウエイトは62.5%に達した。
綿布輸出で英国を抜く/王子製紙 大合同/三井の株式公開
日本の綿織物輸出量が英国を上回る(日銀『金融研究』掲載の畑瀬論文が大蔵省統計等で確認)。5月18日、王子製紙・富士製紙・樺太工業が合併し国内シェア8割超の「大王子製紙」が成立。9月、三井合名が王子製紙・北海道炭礦汽船の株式を売却する。同年、松下電器が事業部制を導入。
日本製鐵 設立
官営八幡製鉄所と輪西製鐵・釜石鉱山・三菱製鐵・九州製鋼・富士製鋼の「1所5社」が統合。資本金3億4,594万円。1934年の生産シェアは銑鉄96%・鋼塊52%だが、これは第3章の1908年の八幡と同じく「国内生産に占めるシェア」であり、日本の自給率ではない点に注意。同年4月、三井合名からの3,000万円の寄付で財団法人三井報恩会が発足した。
二・二六事件 — 高橋是清 暗殺
軍事費膨張に抵抗した蔵相が殺される。同年6月3日には退職積立金及退職手当法(法律第42号)が公布され、9月14日には自動車製造事業法の許可第1号が日産自動車、第2号が豊田自動織機に下りてフォード・GMが締め出される。普通銀行数は424行。準戦時経済が始まり、次章の戦時統制へつながっていく。
レイヤー① 資本と所有 — 株主は「有限責任」ではなかった
額面の4分の1を払えば、株主になれた
戦前の株式には、いま私たちが見ている株式にない仕掛けがありました。分割払込です。
1890年公布の旧商法、そして1899年の新商法は、会社設立に際して額面金額の4分の1以上の払込を求めるだけでした。 残りは、会社が必要になったときに請求すればよい。 額面50円の株なら、まず12円50銭だけ払えば株主になれます。
会社を設立する際に、額面金額をすべて払い込まなければ会社が設立されない、という制度は イギリス・アメリカ・フランス・ドイツといった主要資本主義国のいずれでも当時は採用されておらず、 外国の制度を学べば、分割払込を認める制度を採用したであろう
(南條隆・粕谷誠「株式分割払込制度と企業金融、設備投資の関係について」日本銀行金融研究所 Discussion Paper 2007-J-20、2007年)
つまりこれは日本の特殊性ではなく、当時の国際標準でした。 しかし日本では、この制度が1948年の商法改正まで生き残ります。 そして戦間期の恐慌下で、当時の誰も想定していなかったであろう働き方をします。
請求は、株主総会の決議事項ですらなかった
重要なのは、誰が請求を決めるかです。
| 資金調達手段 | 必要な意思決定 | 株主が拒否できるか |
|---|---|---|
| 増資(新株発行) | 株主総会の決議 | 総会で否決できる。そもそも引き受けなければよい |
| 社債発行 | 取締役会。ただし引受先が必要 | 無関係 |
| 銀行借入 | 取締役会。ただし銀行が貸すかどうか | 無関係 |
| 株式の追加払込 | 取締役会の決議(法的には株主総会の決議事項ではない) | 拒否すれば失権して株式を失う |
払込を怠るとどうなるか。制度は段階的に、そして容赦なく設計されていました。
graph TD A["会社が払込を催告<br/>(取締役会の決議で足りる)"] B["株主が応じる"] C["応じない → 失権"] D["株式を公売"] E["公売代金が催告額に足りる"] F["足りない"] G["失権した元株主に弁済請求"] H["それでも取れない"] I["株式を譲渡した人に請求<br/>(売却後2年間は責任が残る)"] A --> B A --> C C --> D D --> E D --> F F --> G G --> H H --> I style A fill:#2563eb,stroke:#1d4ed8,color:#fff style B fill:#166534,stroke:#14532d,color:#fff style C fill:#7f1d1d,stroke:#991b1b,color:#fff style I fill:#7f1d1d,stroke:#991b1b,color:#fff
時価20銭の株に、6円50銭払え
本来の使い方から逸脱が始まるのは、昭和恐慌期です。
1930年6月、大分セメントは新株12万7,200株に対し1株6円50銭の払込を請求しました。 この会社の新株(30円払込済)の時価は、当時わずか20銭です。
20銭の価値しかない紙切れを持っている人に、6円50銭出せ、と言う。 常識的には誰も払わないはずです。結果はこうでした。
| 会社 | 時期 | 株価の状況 | 請求額 | 失権 |
|---|---|---|---|---|
| 大分セメント | 1930年6月 | 新株の時価20銭 | 1株6円50銭 | 7,572株(165名)。1931年2月に全株払込完了 |
| 白木屋 | 1930年11月 | 新株の時価6円程度 | 1株5円 | 288株のみ。1931年3月に全株完了 |
| 大日本製糖 | 1930年11月 | 株価暴落中(第三新株は額面12.5円に対し1円30銭) | 合計539万2,500円 | 失権株主127名。1931年4月に完了 |
| 宇治川電気 | 1931年3月 | 新株の時価29円(30円払込に対しほぼ維持) | 1株10円 | 未払は8,380円のみ |
| 東京地下鉄道 | 1931年4月・1932年4月 | ほぼ額面で推移 | 200万円・400万円 | 1931年分は10月21日に完了 |
ほぼ全員が払っています。失権すれば株を失ったうえに、公売代金の不足分をなお請求されるからです。 払わない自由は、法的には存在しても経済的には存在しませんでした。
1932年、企業の長期資金の62.5%は「まだ払っていない株金」だった
これが例外的な逸話でないことは、集計すると分かります。
南條隆・粕谷誠は、三菱経済研究所『本邦事業成績分析』と東洋経済新報社『株式会社年鑑』から 企業財務データベースを作成しました。 そこから得られる数字が、この時期の資本市場の実態を示しています。
1932年度の企業の長期資金調達に占める株式追加払込のウエイト(共通サンプル160社。出典: 南條隆・粕谷誠、日本銀行金融研究所 2007-J-20)
1932年度に62.5%、1936年度でも49.0%。 金融市場がタイト化した局面ほど、この手段の比重が上がっています。 なお同じサンプルの1931年度末のストックで見ると、資金調達源は株式が対総資産比43.7%で最大、次いで社債が22.1%でした。
企業の設備投資は、流動性制約と負債制約を受けていた一方で、株式追加払込は流動性制約を緩和し、設備投資を増やす効果を有していたことが示唆された。 1930年代初は金融市場がタイト化し、設備投資が低調であったが、 株式分割払込制度の下での追加払込は、投資の落込みが深刻化するのを防ぐ効果を有していたと考えられる
(南條隆・粕谷誠、前掲論文 4節)
評価は割れます。企業から見れば、恐慌下で唯一機能した資金調達手段でした。 株主から見れば、値下がりした株を持っているだけで追加出資を強制される仕組みです。 1930年から1932年の経済雑誌記事から徴収目的を分類すると、投資が4割超、投資と負債返済の双方が3割強、 純粋な負債返済が2割強でした。少なくとも「株主の金で借金を返した」ケースが2割はあったことになります。
「変態増資」という奇習 — 会社を作って、すぐ合併する
分割払込制度は、もうひとつ奇妙な慣行を生みました。変態増資です。
やり方はこうです。別会社を設立し、その直後に自社へ合併する。それによって資本金を増やす。新株を発行するわけでも、既存の他社を買うわけでもありません。 最初から合併するために会社を作るのです。
| 本体 | 設立した会社 | 合併時期 |
|---|---|---|
| 浅野セメント | 第二浅野セメント | 1924年6月 |
| 明治製糖 | 新明治製糖 | 1927年10月 |
| 東京モスリン紡織 | 第二東京モスリン | 1932年10月 |
| 日本鋼管 | 第二鋼管 | 1933年12月 |
通説の説明は「商法が全額払込前の新株発行を禁じていたから」です。 未払込資本金が残っている会社は増資できない。だから合併という抜け道を使った、と。
ところが齊藤直は、この説明に正面から疑問を呈します。
全額払込前であるということは、換言すれば既発行の株式に未払込部分が存在し、追加払込徴収という資金調達手段を有することを意味する。 ……仮に、著しい業績不振などの理由により追加払込徴収が困難な企業が変態増資を行おうとする場合であれば、 追加払込徴収すら実行困難な企業が変態増資を行い得ると考えることは不自然である。 逆に、好業績の企業が変態増資を行ったとすれば、その企業は他の資金調達手段をも選択し得たはずであり……
(齊藤直「戦間期における『変態増資』と株主——明治製糖による新明治製糖の設立・合併の事例を中心に」『経営史学』第51巻第3号、2016年12月)
齊藤が明治製糖の事例を追うと、別の絵が出てきます。
そして重要なのは、変態増資が例外的な奇習ではなかったことです。 寺西重郎が志村嘉一の調査から再構成した主要402社の増資方法を見ると、「合併増資」は1923〜27年に34.1%、1928〜32年に37.9%を占めています。 戦間期の増資の3分の1以上が、合併という形をとっていました。
戦前の資本市場は「市場」というより「内輪」だった
同じ表は、もっと大きなことを教えてくれます。
主要会社(402社)の増資方法の構成比(出典: 寺西重郎「戦前日本の金融システムは銀行中心であったか」日本銀行『金融研究』2006年3月、表11。原資料は志村嘉一[1969])
公募は12.8%(1914〜17年)から2.9%(1928〜32年)まで下がり、戦前を通じて一度も2桁に戻りません。増資の大部分は既存株主への額面割当でした。 そして合併増資も、寺西が指摘するとおり「既存株式の合併会社株式への切り替えにすぎないから、性質としては株主割当と同一」です。
つまり株主割当+合併増資で見れば、1928〜32年は92.7%。 戦前の企業が新しい資本を入れる方法は、ほぼ「いまいる株主にもっと出させる」だったことになります。
財閥などの非公開会社ほどではないにしても、公開の大企業においても既存株主の仲間うちでの支配意識は顕著であった。そのことを最も雄弁に語るのが公開企業の増資の方法である。
(寺西重郎、前掲論文)
新設会社でも同じです。資本調達に占める発起人・賛成人・縁故募集の比率は 1912〜14年に64.0%、1915〜19年には78.2%。公募は7.0%と4.4%にすぎません。
この構図を頭に入れておくと、次章以降の展開が読みやすくなります。戦前の日本が「株式市場中心のアングロサクソン型」だったという言い方は、量の話としては正しくても、質の話としては単純化です。詳しくはこの章の末尾「断定を避けるべき論点」で扱います。
変態増資の起点は、鈴木商店の破綻だった
ここで見落としてはいけないのは、明治製糖の一連の動きの起点が鈴木商店の破綻であることです。 金融恐慌は、銀行だけの事件ではありませんでした。 取引先の破綻が製糖業の資産再配分を生み、その資産再配分が変態増資という財務技術を呼んだ。 次節では、その起点に降りていきます。
危機は連鎖する — 戦後恐慌から金融恐慌へ
用船料50倍、配当600% — 大戦景気の実像
1914年7月、ヨーロッパで戦争が始まりました。 日本にとってそれは、ほとんど降ってきた需要です。
| 指標 | 大戦前 | 大戦末〜直後 |
|---|---|---|
| 対外収支 | 1914年: 約11億円の債務国 | 1920年: 27億7,000万円超の債権国 |
| 正貨保有高 | 1914年: 約3億4,000万円 | 1918年: 約15億9,000万円 |
| 造船建造トン数 | 1913年: 5万トン | 1918年: 62万トン |
| 用船料 | 開戦時: 重量トン1か月あたり1円 | 大戦末期: 50円(約50倍) |
ここで生まれたのが「船成金」です。 内田信也は1914年12月、三井物産を辞めて資本金25万円(払込12万5,000円)で内田汽船を設立し、 翌1915年下期に60割(600%)の配当を出します。 総収入58万5,000円に対し利益40万2,000円、うち配当37万5,000円で、配当性向93.2%。 1917年には資本金を一挙に1,000万円へ増資し、所有船舶だけで約1億円と査定されるまでになりました。
「船成金は没落した」は、半分しか当たっていない
船成金の話は、たいてい「泡のように消えた」で終わります。 ところが三大船成金を並べると、結末は三者三様です。
| 内田信也(内田汽船) | 山下亀三郎(山下汽船) | 勝田銀次郎(勝田汽船) | |
|---|---|---|---|
| 1920年恐慌への対応 | 暴落直前、興銀と原敬首相から非公式情報を得て全世界の支店に「恐慌近し、手持品全部売払え」と電命。ロンドン支店には相場38ポンドのところ35ポンドで所有船5隻を即売却させた | 「内田のような事前の機敏な行動はとれず」。1920年度に226万円の赤字 | 対応できず |
| 直後の損失 | 1920年度に社船売却差損223万8,000円。資本金1,000万円→200万円に減資、船腹8万トン→2.2万トンへ。内田造船所は大阪鉄工所(日立造船)に無償譲渡し、資本金500万円+貸付金500万円の計1,000万円を損失処理 | 中古船を1920年3月以降1923年にかけて段階的に売却 | 海運不況の長期化 |
| その後 | 資産は7,000万〜1億円から約半分に激減したが破綻は回避。1924年に政界転身、衆院7回連続当選、鉄道相・農商相・農林相を歴任 | 石炭・不動産・造船へ多角化(浦賀船渠株を1917年に34%、1924年に56%まで取得)。1937/38年期に22%配当を復活し1941/42年期まで黒字継続 | 1929年(昭和4)に倒産 |
震災手形の中身は、震災ではなかった
1923年9月1日、関東大震災。 政府は9月27日に日本銀行震災手形割引損失補償令を出し、日銀が震災地関係の手形を再割引し、 損失は政府が1億円まで補償することにしました。
ここまでは災害対応です。問題は何が「震災手形」として持ち込まれたかでした。
震災手形の未決済高の内訳(1926年12月末、総額2億680万円。出典: 日本銀行『日本銀行百年史』表2-15、原資料は日本銀行調査局『震災ヨリ金融恐慌ニ至ル我財界』)
数字を並べます。日本銀行『日本銀行百年史』が原資料から作成した表によれば——
- 割引総額 4億3,081.6万円(手形3億9,167万円+預金証書3,914万円)。割引期限は2度延長され、最終的に1927年9月末まで実施された
- 未決済高は1924年11月末 2億7,567.7万円 → 1925年11月末 2億3,335.9万円 → 1926年12月末 2億680万円(未決済率48.0%)。3年たっても半分近くが残っている
- そのうち台湾銀行が1億35万円。同行の未決済率は86.8%で、全未決済高の48.4%を占めた。朝鮮銀行が2,160.6万円(未決済率60.0%、同10.4%)。この2行で全未決済高の58.8%
- 大口債務者を見ると、鈴木関係7,189万円(総割引高の16.7%)、久原関係2,220万円(5.2%)、国際汽船804万円、原合名772万円、高田商会751万円、村井関係742万円。上位6者で総割引高の29.0%
ここから読めることは明快です。「震災手形」の相当部分は、震災被害の救済ではなく、1920年戦後恐慌で焦げついた債権を、 震災という名目で繰り延べたものでした。そして繰り延べただけなので、消えていない。
これは後世の解釈ではありません。日本銀行が自らの正史でそう書いています。
大口債務者たる鈴木商店を初め久原関係事業、国際汽船、村井関係事業等何れも震災のみならず大正九年反動の打撃深く、資産状態極度に悪化し断然たる整理を必要とするに拘らず、 荏苒其日を糊塗するの有様にして震災手形の支払を為すことは殆ど不可能の状態にあり…… 一億円の補償に望を嘱せんとする傾もなきにしもあらず、斯て震災手形の決済が容易に進捗を見る能はざりしなり
(日本銀行『日本銀行百年史』第3巻。「大正九年反動」は1920年の戦後恐慌のこと)
同書は制度の運用についても「実際には一部で同制度が悪用され、震災にあまり関係のないものが融通を受けたとの批判も後に生じている」と記しています。
台湾銀行の震災手形は、91%が大口債務者向けだった
もう一段深く見ると、集中の度合いが分かります。 日本銀行が作成した表2-13は、大口債務者20社の債務を、どの銀行が持っていたかを対応させたものです。
| 銀行 | 震災手形割引高(千円) | うち大口債務者分(千円) | 比率 |
|---|---|---|---|
| 台湾銀行 | 115,225 | 104,870 | 91.0% |
| 第二銀行 | 9,299 | 7,720 | 83.0% |
| 朝鮮銀行 | 35,987 | 29,230 | 81.2% |
| 十五銀行 | 20,074 | 15,690 | 78.2% |
| 若尾銀行 | 5,734 | 3,040 | 53.0% |
| 東京渡辺銀行 | 7,519 | 2,750 | 36.6% |
| 村井銀行 | 20,430 | 7,420 | 36.3% |
| 川崎銀行 | 19,373 | 2,520 | 13.0% |
(日本銀行『日本銀行百年史』表2-13「大口債務者と震災手形所持銀行との関係」より抜粋。原資料は日本銀行調査局『関東震災ヨリ昭和二年金融恐慌ニ至ル我財界』878〜879頁)
台湾銀行の震災手形は、91.0%が20社の大口債務者向けでした。分散していない。特定の企業グループの焦げつきを、特定の銀行が抱えていた。 そしてこの表に並ぶ台湾銀行・朝鮮銀行・十五銀行・東京渡辺銀行・中井銀行・近江銀行は、 すべて1927年に整理を余儀なくされるか破綻します。
graph LR A["1920年 戦後恐慌<br/>取引先向け債権が焦げつく"] B["1923年 関東大震災<br/>震災手形として日銀が再割引"] C["1926年末<br/>未決済 2億680万円が残存<br/>台湾銀行に48.4%が集中"] D["1927年 金融恐慌<br/>台湾銀行が鈴木商店を切る"] E["銀行法(1927)と銀行合同<br/>普通銀行 1,283行→538行"] F["五大銀行への預金集中<br/>1920年20.5%→1930年31.1%"] A --> B B --> C C --> D D --> E E --> F style A fill:#7f1d1d,stroke:#991b1b,color:#fff style D fill:#7f1d1d,stroke:#991b1b,color:#fff style F fill:#2563eb,stroke:#1d4ed8,color:#fff
片岡失言の原文と、日本銀行自身の留保
1927年3月14日、衆議院予算委員会。 片岡直温蔵相の答弁が金融恐慌の引き金になった、というのが教科書的な説明です。 『日本銀行百年史』が引く原文はこうです。
現ニ今日正午頃ニ於テ渡辺銀行ガ到頭破綻ヲ致シマシタ、是モ洵ニ遺憾千万ニ存ジマスガ、 是等ニ対シマシテ預金ハ約三千七百万円バカリゴザイマスカラ、 是等ニ対シテ何トカ救済ヲシナケレバナラヌト存ジマスガ
(日本銀行『日本銀行百年史』第3巻。1927年3月14日、衆議院予算委員会における片岡直温大蔵大臣の答弁)
実際、東京渡辺銀行とその姉妹行あかぢ貯蓄銀行は翌15日から休業します。 ここで注目したいのは、日本銀行自身がこの因果を断定していないことです。
ただ、この休業が前述の片岡発言の段階ですでに決定していたものか、 それとも片岡発言によって休業せざるをえない状態(に至ったのか)
(同上。日本銀行『日本銀行百年史』の記述)
当事者中の当事者である中央銀行が、自らの正史で判断を保留している。 「一言の失言が恐慌を引き起こした」という物語は、語りとしては鮮やかですが、 背景には震災手形の2億円が3年以上未処理で残っていたという構造があります。 失言は、着火であって燃料ではありません。
鈴木商店 — 通説の数字を、典拠まで遡る
金融恐慌の中心にいたのが鈴木商店です。 この会社については、ほぼ必ずこう語られます。「第一次大戦のブームで急成長し、1917年に売上15億円で三井物産・三菱商事を抜いて日本一の商社になった」。
第1章から続けているやり方で、この数字を追跡します。 先に断っておくと、この検証の結果、第3章の記述を訂正しました。第3章では「1917年の売上で三井物産を凌駕し、日本一の商社になった」「GNPの約1割」と書いていましたが、 実証的な裏づけがないことが分かったためです。
| 通説の要素 | 検証結果 |
|---|---|
| 1917年に三菱商事を抜いた | 時系列が成立しない。三菱商事の設立は1918年(三菱合資会社営業部の分離独立)。1917年時点で「三菱商事」という法人は存在しない |
| 売上高15億4,000万円 | 典拠は『朝日経済年史』(1928年、鈴木商店破綻の翌年の刊行)。藤村聡は同書の記述を「伝聞形式かつ粗雑」と評価し、この金額をそのまま受け入れることに躊躇を示す |
| 三井物産を上回った | 鈴木邦夫が2015年5月29日の「鈴木商店シンポジウム」(鈴木商店記念館主催)で、史料の整合性から三井物産の売上高が鈴木商店を上回っていたと推測されると指摘 |
| 「GNPの1割」 | 算出根拠(分母のGNP推計値)が明示された資料を確認できず。要検証 |
藤村聡は、売上高という当てにならない指標の代わりに、人数で比較しています。
では、鈴木商店について私たちが確実に言えることは何か。 皮肉なことに、それは震災手形の表にあります。7,189万円——総割引高の16.7%を1グループで占める、突出した最大の債務者。 規模の大きさは、売上高ではなく借金の大きさによって記録されました。
「天下三分の宣誓書」は、いつ書かれたか
鈴木商店を語るときに必ず引かれる文書があります。 大番頭・金子直吉がロンドン支店の高畑誠一に宛てた書簡です。
此戦乱の変遷を利用し大儲けを為し三井三菱を圧倒する乎、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎、 是鈴木商店全員の理想とする所也。 小生共是が為め生命を五年や十年早くするも縮小するも更に厭う所にあらず。
(金子直吉から高畑誠一宛書簡。「天下三分の宣誓書」として知られる。鈴木商店記念館の解説による)
この書簡も、通説では1917年(大正6)のもので、 「日本一になった年に書かれた宣言」として語られてきました。 しかし鈴木商店記念館の解説は1915年(大正4)執筆とし、 さらに2015年のシンポジウムで鈴木邦夫が文中に登場する船舶名から1917年より前の執筆だと指摘しています。
年が2年ずれるだけで、文書の意味は変わります。1917年の書簡なら「達成の宣言」ですが、1915年の書簡なら「まだ届いていない目標の表明」です。「圧倒する乎、然らざるも……天下を三分する乎」という言い回し自体が、 そもそも達成を報告する文体ではありません。
焦げついたのは1億503万円。払ったのは納税者だった
震災手形の物語には、あまり語られない結末があります。
| 項目 | 金額 |
|---|---|
| 回収不能額 | 1億503万4,725円62銭 |
| 銀行券発行費用(+) | 1,546万3,250円55銭 |
| 割引料延滞利息等(-) | 2,067万7,388円52銭 |
| 純損失 | 9,982万587円65銭 |
| 実際の補償額 | 9,982万567円50銭 |
政府はこの補償額に相当する5分利付国債(額面1億975万円)を、 1927年12月16日の第1回から1929年2月14日までの7回に分割して日本銀行に交付しました。 この国債は発行年から5年据置、その翌年から起算して50年償還という長期債です。
震災手形処理委員会が回収不能と決定したのは19行分・1億522万1,000円(決定時の融資額は1億6,354万6,000円)。 当初「1億円まで」とされた政府補償枠は、ほぼ使い切られました。
1920年の戦後恐慌で企業が作った焦げつきが、震災の名で銀行に繰り延べられ、 最後は50年償還の国債という形で国民に配分された——これがこの一連の危機の会計上の結末です。
銀行はなぜ538行まで減ったのか
普通銀行数の推移(出典: 日本銀行『日本銀行百年史』表5-1、原資料は大蔵省『銀行局年報』・日本銀行調査局『日本金融史資料』昭和編第9巻)
第2章で、明治9年の改正国立銀行条例のあと国立銀行が4行から153行へ増えた話を書きました。 第3章の時点で普通銀行は1,867行(1901年)です。 それが1927年の1,283行から1932年の538行へ、わずか5年で58%(745行)減ります。
原因は2つです。金融恐慌による淘汰と、1927年銀行法による規制です。
| 1927年銀行法(昭和2年法律第21号)の要点 | 内容 |
|---|---|
| 公布・施行 | 1927年3月30日公布、1928年1月1日施行 |
| 組織形態 | 普通銀行を株式会社に限定 |
| 最低資本金 | 原則100万円。東京・大阪に本店を置く銀行は200万円。既存行には5年の猶予 |
| 兼業規制 | 倉庫業・証券業・ビルブローカー業等との兼営を禁止(銀証分離) |
猶予が5年——1928年1月から数えて1932年末。 銀行数が538行まで落ちるのがまさに1932年であることに注目してください。 数字は、規制の期限に正確に反応しています。
五大銀行への集中
減った分はどこへ行ったか。三井・三菱・住友・第一・安田の五大銀行です。
五大銀行(三井・三菱・住友・第一・安田)の全普通銀行・貯蓄銀行に占める市場占有率(出典: 白井博之『甲子園短期大学紀要』No.26、2007年、表6。原出典は日本銀行「本邦主要経済統計」)
預金シェアは1920年の20.5%から1930年の31.1%へ。 1926年末から1927年末の1年で、五大銀行の預金は5億8,500万円増加しています (同時期に郵便貯金も3億6,700万円増えました。人々は民間の中小銀行から逃げたのです)。
ただし、この集中を「恐慌が大銀行を勝たせた」と読むのは一面的です。 先に見たとおり、五大銀行はそもそも震災手形をほとんど持っていませんでした。日本銀行は、震災直前に第一・三井・三菱・住友の各行に日銀からの借入残高がなかったことを指摘し、 これを「大銀行とその他の銀行との経営上の違い」と評しています。 差は恐慌の前からあり、恐慌はそれを決済しただけとも言えます。
そして注目すべきは貸出金シェアです。 1930年の27.6%から1940年には44.7%へ跳ね上がる。 ここから先は第5章の領域ですが、「大企業が特定の大銀行と長期的な関係を持つ」というメインバンク制の物理的な前提は、 この銀行合同で作られました。数を減らせば、選べる相手も減ります。
レイヤー② 組織と統治 — 分系会社は「事業部」だった
三菱が自分で書いた、分系会社の定義
第3章で、三井合名(1909年)が直系100%・傍系5〜56%という二層構造を作ったことを見ました。 三菱は違う道を通ります。1917年から、事業部を次々に別会社にしていくのです。
三菱造船・三菱製鉄(1917年11月1日開業)、三菱商事・三菱鉱業(1918年)、三菱銀行(1919年)、 三菱内燃機製造(1920年)、三菱電機(1921年1月15日)。 この分離された会社群を三菱は「分系会社」と呼びました。 では分系会社とは何か。三菱自身の定義が残っています。
| 区分 | 三菱自身による定義(原文) |
|---|---|
| 分系会社 | 「三菱本社ノ統理助長下ニ在ル直轄会社 主トシテ三菱合資会社ヨリ分離独立セルモノ 十一社」 |
| 傍系会社 | 「総株数ニ対シ本社及分系会社ノ持株割合五〇%以上ノモノ、並ニ五〇%以下ニテモ経営ノ実権ヲ握レリト認メラルルモノ」 |
| 関係会社 | 「本社及分系会社ノ投資会社中経営ノ関係特ニ深シト認メラルル主要ナルモノ」 |
(1943年2月「株式会社三菱本社並分系傍系会社一覧表」および1943年7月の一覧表より。 粕谷誠「三菱財閥における分権化と本社による統轄——分系会社と関係会社を中心に」『三菱史料館論集』第25号、2024年)
注目してほしいのは傍系会社の定義に「五〇%以下ニテモ経営ノ実権ヲ握レリト認メラルルモノ」が入っていることです。 持株比率は基準のひとつにすぎず、実質基準が併記されている。 実際、日本化成工業は1940年の増資時に三菱社が持株率25%を取得しただけで分系会社化されています。
分系会社の社長は、事業部長より権限が小さかった
では、分系会社は独立した会社だったのか。粕谷の評価は厳しいものです。
本社がトップに位置し、グループ全体をコントロールし、分系会社のマネジメントはアメリカの意味での事業部長に相当するミドルマネジメントに近い位置づけとなった (正員の採用権もないからそれより権限が小さいといえる)
(粕谷誠、前掲論文。1922年の理事会構成についての評価)
「正員(本採用社員)の採用権もない」——これが決定的です。 別会社になっていても、自分の社員を自分で採用できないなら、それは会社ではなく事業部です。
この権限が分系各社に委譲されるのは1932年のこと。 分社から10年以上かかっています。 同じ時期に本社側では逆に、1931年12月に社長室会(岩崎小彌太・総理事・管事らで構成、週3回開催)が設置され、 トップマネジメント機能が強化されました。権限を下ろすことと、中枢を固めることが同時に進んでいます。
松下の事業部制(1933年)は、何が違ったか
同じ1930年代、まったく逆の方向から同じ問題に取り組んだ会社があります。
1933年5月、松下幸之助は事業を3つに分けました。 ラジオ部門を第1事業部、ランプ・乾電池部門を第2事業部、配線器具・合成樹脂・電熱部門を第3事業部。 各事業部が工場と出張所を持ち、開発から生産・販売・収支まで一貫して責任を負う独立採算制です。 日本で最初の事業部制とされます。
| 三菱の分系会社(1917〜) | 松下の事業部(1933) | |
|---|---|---|
| 出発点 | 巨大な合資会社を分割する(分権化) | 成長する単一企業を分ける(分権化) |
| 法人格 | 別法人にした | 同一法人内の組織単位(1935年に株式会社化し、9社の子会社を設立して分社制へ) |
| 採用権 | 本社が保持(1932年に委譲) | 事業部が持つ |
| 損益責任 | 分系会社ごと。ただし重要事項は本社理事会が審議し社長が決裁 | 事業部ごとの独立採算 |
| 思想 | 同族の支配権を維持しつつ事業リスクを分離する | 責任者に一貫した責任を持たせて経営者を育てる |
法人格を分けた三菱の方が権限は集中しており、 法人格を分けなかった松下の方が権限は分散していた。組織の形と権限の配分は、独立した変数です。
財閥転向 — 公開されたのは、傍系だけだった
1930年代、財閥は激しい批判にさらされます。 1931年9月に英国が金本位制を離脱すると、財閥は大規模なドル買いを行い「国賊」と攻撃されました。 そして1932年2月に前蔵相・井上準之助が、3月5日に三井合名理事長・団琢磨が暗殺されます。
三井の対応は「財閥転向」と呼ばれます。実施内容を年で並べます。
団琢磨 暗殺
血盟団による。前月の井上準之助暗殺に続く。三井にとって改革の直接の契機となる。
三井高棟の引退
同族当主が第一線から退く。
傍系株式の売却・公開
三井合名会社が所有する王子製紙・北海道炭礦汽船の株式を売却。他社株も公開された。ただし対象は傍系会社であり、三井物産・三井鉱山という直系の本体ではない。
同族の役員退任
三井銀行・三井物産・三井鉱山の社長職にあった同族がそれぞれ退任する。
三井報恩会 発足
三井合名会社からの3,000万円の寄付により財団法人として設立。児童保護・農村共同加工施設支援などに充てられた。
重役定年制の導入
池田成彬が定年制を設け、自らも勇退する。
三井鉱山の株式公開
直系会社として初めて株式が公開された。ただし主因は戦時下の大規模増資であり、財閥転向とは別の波。
三井物産の株式公開
1940年に三井合名が旧三井物産に吸収合併された後の公開。合併の理由には日中戦争後の傘下会社の資本金払込増加や相続税など諸納税への対応が挙げられている。
ここから読めるのは、「転向」の時期に公開されたのは傍系株だけだったということです。 直系である三井鉱山の公開は1939年末、三井物産は1942年。社会的批判が最も激しかった1932〜34年には、支配の中核はまったく手つかずでした。
新興財閥 — 資金を「大衆」から集める
既存財閥が同族の非公開所有を守っている間に、まったく違う資金調達で伸びた企業群があります。新興財閥(新興コンツェルン)です。
| コンツェルン | 創業者 | 起点 | 特徴と規模 |
|---|---|---|---|
| 日産 | 鮎川義介 | 久原鉱業(1912)→1928年に日本産業へ改称 | 公開持株会社という新方式。傘下企業の株式を市場に公開してプレミアムを獲得し、その資金で新規事業・買収を継続。1937年時点で直系18社・直系子会社59社の計77社(宇田川勝の研究による払込資本金は4億7,363万円)。傘下に日立製作所・日産自動車・日本鉱業・日本水産 |
| 日窒 | 野口遵 | 曾木電気(1906)→日本窒素肥料(1908) | 1921年にカザレー法特許を購入、1923年10月に延岡でアンモニア合成の試運転に成功。1926年に朝鮮水電、1927年5月2日に朝鮮窒素肥料を設立し興南コンビナートを建設。蓋馬高原の水力発電所12か所で総発電容量87万kW、関連会社十数社、従業員約4万5,000人、家族を含めた人口約18万人 |
| 理研 | 大河内正敏 | 理化学興業(1927) | 理研の各研究室の発明を個別に会社化する方式。アルマイト、ピストンリング、感光紙、金属マグネシウム、合成酒など。最盛期の1939年に63社・121工場(理化学研究所の公式記録で確認できる数字) |
| 森 | 森矗昶 | 日本沃度(1926)→日本電気工業(1934) | 1928年に昭和肥料設立。1939年6月に日本電気工業と昭和肥料が合併して昭和電工(現レゾナック)が誕生 |
| 日曹 | 中野友礼 | 日本曹達(1920) | 京都帝大での電解ソーダ研究をもとに食塩電解法で創業。好況期の株式公開資金で拡大したが、1930年代後半に借入金増大と組織未整備で経営が悪化し、中野は退陣 |
既存財閥との違いを一言でいえば、金の出どころです。 三井・三菱・住友は同族の非公開所有と内部蓄積を基本としました。 日産は逆に、市場から集めます。鮎川義介自身が「資金は常に大衆から集めた」と述懐しています。
評価についても、通説と研究には距離があります。 「新興財閥=軍部と結びついて台頭した」という理解に対し、宇田川勝らは 鮎川義介や野口遵を技術系・エンジニア出身の企業家として再評価しました。 既存財閥との違いは①資金調達方式(株式市場 vs 家族的所有)と②経営者類型(技術者企業家 vs 番頭経営)の両方にある、という整理です。
ただしこれは、満州事変後の対外進出や軍需との結びつきを否定するものではありません。 日産は1937年12月に本社を満州へ移し、満州重工業開発株式会社に改組されます。「技術者企業家としての先進性」と「軍部・植民地経済への依存」は、両立する評価軸として併存しています。
レイヤー③ 雇用と人事 — 定着させたのは企業か、不況か
第3章の結論は「明治期に日本的雇用は成立していない」でした。 森口千晶の言葉を借りれば「二十世紀初頭には日本型人事管理モデルの構成要素はどれ一つとして成立していなかった」。 では、戦間期はどうか。ここが1920年代成立説の主戦場です。
離職率が40〜100%から5%に落ちた
数字は劇的です。
| 指標 | 第一次大戦期 | 1920年代半ば〜1930年 |
|---|---|---|
| 造船所・製鉄所の離職率(兵藤釗の調査) | 40〜100% | 1930年に5% |
| 浦賀船渠の6年以上勤続者の割合 | 1921年 31.4% | 1925年 52.2% |
第3章で見た明治期の姿——「平均勤続年数は1年に満たない」「頻繁な自発的離職と解雇」——からの断絶に見えます。 1920年代に日本的雇用が生まれた、と言いたくなる数字です。
しかし、ここで問うべきは因果です。 企業が定着させたのか、それとも行き先がなくなったのか。
1920年の戦後恐慌以降、日本経済は戦後恐慌・震災・金融恐慌・昭和恐慌と危機が続きます。 熟練工が「より高い賃金の職場」へ移ろうにも、その職場が募集していません。 A・ゴードンは、1920年代の長期勤続傾向は戦後とは比較にならない程度であり、 依然として移動層が支配的だった、と留保しています。
新卒一括採用は、「社員」だけの制度だった
新規学卒定期採用の成立は、この時期の最も確かな変化です。ただし範囲が限定されます。
日本郵船が定期採用を開始
『日本郵船株式会社百年史』により、帝国大学・高等商業学校の学生の定期採用を開始したことが確認できる。竹内洋は「日本郵船と三井が大学卒を定期的に採用するようになったのがはじまり」と分析。ただしこの時点では普及しない。
安田銀行はまだ苦労していた
大学卒の定期採用が難しく、「練習生」という自社養成制度で代替していた。この制度が終了するのは1920年で、その頃ようやく大学卒新人の定期採用が定着した。
三井物産で方式が確立
新卒者を在学中に「総合職」として一斉にリクルートする方式が確立(若林2007)。同じ頃、実業学校など中等教育機関の新規学校卒業者を下級職員として定期採用する慣行が急速に普及する(濱口2011)。
三菱系企業の新卒採用数が2.6倍に
1914年140人 → 1918年364人(天野2013)。第一次大戦の好況が需要を押し上げた。
大学側に就職斡旋の部署ができる
1921年早稲田、1924年明治、1925年日大が就職斡旋の事務部署を開設。供給側の制度が整う。
就職協定(申合せ)の成立 — そして「内定」という言葉が生まれる
三井・三菱など大手銀行の頭取・重役の集まり「常盤会」の意向で大学および文部省に働きかけが行われ、翌1929年卒業予定者の定期採用を「卒業後に行う」とする協定が結ばれた。在学中の事実上の採用約束を指す言葉として「内定」が生まれたとされる。ただし優秀な学生の早期確保を狙う抜け駆けは改まらず、1935年6月に三菱の提案で協定は正式に破棄された。前年の1927年に金融恐慌、翌1929年には「大学は出たけれど」(大学・専門学校卒業者の就職率約30%)。制度は好況ではなく就職難のなかで整えられ、そして7年で壊れた。
ここで決定的なのが適用範囲です。野村正實の整理によれば、 戦前の大企業は従業員を身分で仕切っていました。
| 身分 | 学歴 | 採用方式 | 賃金 | 福利厚生 |
|---|---|---|---|---|
| 社員 | 大卒・高専卒 | 本社一括採用(新卒定期採用)。各部門を経験して昇進 | 月給 | フル |
| 準社員 | 中等教育卒 | 新卒定期採用。ただし地方労働市場から事務所単位で採用 | 月給 | 社員に劣る |
| 工員 | 初等教育卒 | 必要に応じて随時採用 | 日給または能率給(請負給) | ほぼ関係なし |
| 組夫 | —— | 下請会社の従業員 | —— | 最下層 |
新卒一括採用が行われたのは、社員と準社員だけでした。工員は随時採用です。 そして工員層への新卒一括採用の本格的な拡大は、戦後(高度成長期)の現象になります。
つまり「新卒一括採用は戦前からある」は正しいのですが、それは大企業のホワイトカラーだけの慣行であり、いま私たちが知っている全社員一律の制度ではありませんでした。
年齢賃金カーブは出た。しかし「年功」ではない
年功賃金についても、データは出ています。 昭和2年(1927)の内閣統計局『労働統計実地調査報告』は、 賃金が年齢とともに上昇し45〜50歳前後で頂点に達することを示しました。
これをもって「年功賃金の成立」と言えるか。ここで学説が割れます。
| 論者 | 主張 | 根拠 |
|---|---|---|
| 間宏(1978) | 年功賃金が成立・具体化した時期は1920年代 | 大正期の賃金体系の特色を「初任給の低賃金をベースとした年功昇給制、勤続奨励・定着奨励的体系」と整理 |
| A・ゴードン(2012) | 「年功的処遇が具体化した」というのは誇張である | 昭和2年『労働統計実地調査報告』の年齢賃金カーブを認めたうえで、賃金水準は依然として技能・能率向上刺激の要因で決まり、昇給は選別的・恣意的かつ不定期な場合が多かったと指摘 |
ゴードンの論点は、カーブの存在ではなくルールの存在です。 結果として年齢と賃金に相関があっても、 「勤続何年で自動的にいくら上がる」という規則がなければ、それは年功制度ではない。
退職金も同じ構図です。 1935年の内務省調査では、常時100人以上の企業の36%に退職金規定があり、17%で支給慣行がありました。 しかし自己都合退職は減額され、勤続年数に対する累進性も低かった。 さらにブルーカラーとホワイトカラーで金額に大きな差がありました。
恐慌が「年功」を作った — 賃金カットの非対称
では、年功的な処遇はどこから来たのか。 この章でいちばん重要な数字は、たぶんここです。
1930年前後、企業は諸手当削減・昇給停止・賞与削減・本給や請負単価の切下げによって、20〜30%に及ぶ大幅な賃金削減を行いました。 そのとき、削減率は一律ではありませんでした。
ここに、この章の因果が見えます。
年功的な処遇は、余裕のある時期に温情から与えられたものではありません。 余裕のない時期に「誰を残すか」を選別する過程で、勤続年数が選別の基準として使われたのです。
第3章で見た1899年の「応募工女心得」の年功手当(3年以上で月35銭、罰金1回32銭とほぼ同額)が 「技能への報酬ではなく引き留め手当」だったのと、構図はよく似ています。 違いは規模と対象で、明治期は逃亡防止、戦間期は解雇順位の決定でした。 そして誰が最後まで残るかを決めるルールは、残った側にとっての「安定」として経験されます。
1921年、3万人が負けた
雇用の話をするとき、労働側がどう動いたかを外すわけにはいきません。
1919年、労働争議は一般争議2,388件・同盟罷業や怠業497件・参加人員33万5,000人に達しました (うち1,000人以上規模の企業の参加人員が全体の56%)。 1915年まではストが年100件・参加者1万人未満だったことを思えば、桁が変わっています。
頂点が1921年の川崎・三菱神戸造船所争議でした。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 期間 | 1921年6月25日〜8月12日(約1か月半) |
| 規模 | 川崎3社(本店・兵庫・葺合)と三菱3社(造船・内燃機・電機)の約3万人。戦前最大の争議 |
| 要求 | 横断組合の承認、団体交渉権の確認 |
| 経過 | 7月7日に全工場ストライキ状態。軍隊出動を含む弾圧と会社側の強硬対応 |
| 結末 | 8月9日に無条件就業、8月12日に惨敗宣言。幹部約200名が検挙され、各職場の活動家が根こそぎ解雇された |
要求は「横断組合の承認」でした。企業を横断する職業別組合を認めろ、という要求です。 第3章で見た友子同盟のような同職集団の系譜に立つ、企業の外側の連帯です。
これが敗北した。そして活動家が職場から一掃された。戦後日本の労働組合が企業別に組織されることになる遠い伏線が、ここにあります(直接の起源は第5章の産業報国会と第6章の占領期ですが、 「横断組合が制度として定着し損ねた」という事実は戦間期に確定しています)。
戦前の労働組合組織率のピーク(1931年、組合員36万9,000人)。この値は戦前を通じて超えられなかった
1931年の組織率7.9%(組合員36万9,000人)が戦前の最高値です。 しかもその36万人には海員約11万人と海軍工廠労働者3万人余りが含まれ、 一般労働者の組織率はさらに低い(末弘厳太郎の指摘)。 1936年になってもこの値を超えることはありませんでした。
労働組合法案は1920年・1925年・1931年の3度、国会に提出され、いずれも成立していません。1931年案は衆議院を通過しましたが貴族院で審議未了・廃案。 労働組合の法的承認は戦後に持ち越されます。
退職金は、失業保険の代わりに来た
1936年6月3日、退職積立金及退職手当法(法律第42号)が公布されます。 常時50人以上を雇用する工場法・鉱業法適用事業の事業主に、 労使負担(賃金の100分の2相当額を事業主が控除・積立)による退職金制度の整備を義務づけるものでした。
この法律の成立経緯には、日本の雇用制度を理解する上で重要な分岐が含まれています。
世界恐慌時の労働争議で労働側が失業保険制度を要求したが実現せず、 工場法1922年改正では解雇予告・予告手当の制度に留まったため、労働組合と大企業は退職手当制度の導入という現実路線を選択した
(大湾秀雄・須田敏子の整理。JILPT資料シリーズNo.199-1『雇用システムの生成と変貌』草野隆彦、2018年より)
社会保険で失業に備えるか、企業が退職金で備えるか。日本は後者を選びました。 この分岐が、企業に生活保障機能が集中する日本型雇用の骨格になっていきます。
格差は縮まらず、広がった
最後に、この時期の分配を確認しておきます。
| 格差の種類 | 大戦期 | 1930年代 |
|---|---|---|
| 1,000人以上規模/5〜9人規模の賃金比(隅谷三喜男) | 1914年 約1.5倍 | 1932年 2.3〜2.4倍 |
| 東京の職工10人以上工場/10人以下工場の賃金比(中村隆英) | 1917年 1.03倍 | 1931年 1.43倍(ピーク)、1937年 1.29倍 |
| 職員(月給制)と工員(日給制)の待遇差 | 既に存在 | むしろ拡大。一部大工場で職員の定期昇給制が普及した一方、工員の昇給は「頭打ち」「一律でない抜擢昇給制」で勤続に厳密に対応しなかった |
第3章で見た「明治期は流動性が高く、中途採用者が待遇上の不利益を受けることもなかった」という世界から、 戦間期に何が変わったか。大企業に入れた者と入れなかった者の差が開き、大企業の中でも身分による差が開きました。定着が進んだことと、格差が開いたことは、同じ現象の別の側面です。
断定を避けるべき論点
この章で扱った事柄のうち、学界が割れているもの、および本章の調査で確定できなかったものを明示します。
| 論点 | A説 | B説 | 状況 |
|---|---|---|---|
| 1920年代の日本経済 | 通説: 「慢性不況」。戦後恐慌→震災恐慌→金融恐慌→昭和恐慌と続く長期停滞 | 中村隆英・三和良一ら: マクロの停滞の裏で電力・化学・機械の生産性が上昇し重化学工業化が進展した | 「マクロは停滞、ミクロは進展」という二層的理解がほぼ定着。ただし「いつ重工業が経済の基軸になったか」は1920年代説と1930年代説(橋本寿朗)で力点が異なる |
| 金解禁の平価 | 井上準之助: 旧平価解禁。国際的信認の回復と為替安定を優先 | 石橋湛山・高橋亀吉ら: 新平価解禁。カッセルの購買力平価説にもとづき、実勢レートに切り下げてから解禁すべきだとした | 「旧平価解禁は政策判断として誤りだった」という評価は経済史学でほぼ決着。ただし当時の論理的一貫性(緊縮による構造改革志向)を跡づける研究もあり、結果責任と当時の合理性は分けて評価すべきとされる |
| 高橋財政は何が効いたか | 通説: 世界初のケインズ主義的財政政策(『一般理論』刊行は1936年で、高橋財政はそれ以前) | Cha(2003)ほか: 構造VAR分析により、財政拡大の役割を確認しつつ金本位制離脱にともなう為替減価も重要だったとする | 未決着。「有効だった」ことは一致するが、財政・為替・金融緩和の相対的寄与度の実証論争が続いている。近年は為替・金融要因が相対的に強調される方向 |
| 新興財閥の位置づけ | 通説: 軍部と結びついて台頭した存在 | 宇田川勝ら: 技術系企業家による企業集団。既存財閥との違いは資金調達方式(株式市場 vs 家族的所有)と経営者類型 | 単純化は修正されたが、対外進出・軍需との結びつきは否定されていない。「技術者企業家としての先進性」と「軍部・植民地経済への依存」は両立する評価軸として併存 |
| 日本的雇用はいつ成立したか | 1920年代説: 尾高煌之助・菅山真次・中林真幸・間宏 | 戦時期説(野口悠紀雄・岡崎哲二)/高度成長期説(遠藤公嗣) | 未決着。ただし三説は排他的でなく「1920年代=萌芽/戦時期=国家による制度的強制/高度成長期=広範な定着」という三段階の統合的理解が折衷的な到達点。伊藤修・松原隆一郎は1940年体制論の「断絶」の強調に慎重論を唱える |
| 財閥転向の評価 | 実質的な経営民主化・社会的責任の表明。岡崎哲二(1999)は財閥を「有効な企業統治の仕組み」として機能主義的に評価する | 世論対策の「カモフラージュ」。三井文庫自身が「当時から……否定的な意見もあった」と記録し、根拠として株式の公開先が三井グループ内に集中していた点を挙げる | この説を体系的に論じた論者は本章では特定できなかった(「財閥転向」という語の初出も同様)。ただし「公開されたのは傍系だけ」「公開先がグループ内」という事実は確認できる。本章は評価を保留し、何がいつ公開されたかを年で並べる方法を採った |
| 戦前日本の金融システム | 石井寛治: 銀行中心の間接金融型だった。日本資本主義の後進性を前提とし、先進国型市場の未発達と国家介入の必然性を強調する立場 | 岡崎哲二ら: 株式市場中心の資本市場型だった。欧米型制度への接近として捉える近代化論的進歩史観に立つ | 未決着。寺西重郎(2006)は第三の立場を採り、資本市場の役割が「通時的に高度化した形跡はみられない」、銀行の役割が「通時的に高まったということもまたない」とする。本章の公募比率2.9%(1928〜32年)・縁故募集78.2%(1915〜19年)という数字は、「市場か銀行か」という問いの立て方自体を相対化する |
| 鈴木商店の規模 | 通説: 1917年に売上15億4,000万円で三井物産・三菱商事を抜き日本一 | 藤村聡(2017)・鈴木邦夫(2015): 典拠の『朝日経済年史』(1928)の記述は伝聞形式かつ粗雑。従業員数の推計では鈴木商店は三井物産の3割以下 | 通説側の一次資料が確認できない。加えて三菱商事の設立は1918年であり、1917年時点で比較対象が存在しない |
| 日産コンツェルンの規模 | 1937年に払込資本金22億7,000万円で三井・三菱を上回った | 宇田川勝: 1937年に直系18社+直系子会社59社の計77社、払込資本金4億7,363万円で三井・三菱に次ぐ第3位 | 前者の一次資料に到達できず。社数構成から満州重工業開発への改組後(1941年前後)の数字が混同されている可能性が高い |
| 綿布輸出で英国を抜いた年 | 1933年 | 1934年 | 1933年で確定。畑瀬真理子(日本銀行『金融研究』2002年6月)が大蔵省理財局『金融事項参考書』等にもとづき「1933年には日英の綿布輸出量は逆転した」と明記。指標は輸出量(百万平方ヤード)。「1934年に26億平方ヤード」は逆転年ではなく輸出量そのものの数字と思われる |
現代への接続
この章で作られたもののうち、何が今も残っているかを整理します。
| この章で生まれた/確定したもの | 現代における姿 | 連続性の性質 |
|---|---|---|
| 株式分割払込制度(1890年旧商法〜) | —— | 断絶。1948年の商法改正で廃止。現代の株主は払込済額を超える責任を負わない。ただし「株主が有限責任である」ことを当然の前提として企業金融を語るとき、それが戦後の制度であることは意識しておく価値がある |
| 変態増資(会社を作ってすぐ合併する。1928〜32年の増資の37.9%) | —— | 断絶。ただし「別法人を経由して資産評価を調整する」という財務技術の発想は、現代のスキーム設計にも通じる |
| 株主割当中心の増資(公募は1928〜32年で2.9%) | 公募増資・第三者割当が一般化。株主割当は希薄化を避けたい場合の選択肢のひとつ | 断絶。戦前に公募が伸びなかった理由のひとつは金融機関に証券引受機能がなかったことで、証券会社の引受業務が育つのは戦後 |
| 新卒採用の時期を業界で申し合わせる(1928年の就職協定、1935年に破棄) | 就活スケジュールをめぐる経団連指針・政府要請と、その形骸化 | 直接連続。「申し合わせても抜け駆けで壊れる」という構図まで含めて反復している |
| 1927年銀行法と銀行合同(1,283行→538行) | メガバンクを頂点とする銀行構造 | 直接連続。最低資本金規制による淘汰という手法も、その後の金融行政に引き継がれた |
| 五大銀行への貸出集中(1930年27.6%→1940年44.7%) | メインバンク制 | 連続。ただし制度としての完成は戦時統制期(第5章) |
| 三菱の分系会社(1917〜) | 持株会社体制、○○ホールディングス | 組織原理として連続。「別法人にすること」と「権限を渡すこと」が別問題である点も変わっていない |
| 松下の事業部制(1933) | 事業部制、社内カンパニー制 | 直接連続 |
| 新卒一括採用(大卒は1910年代半ば、就職協定は1928年) | 新卒一括採用、就活スケジュール | 直接連続。ただし戦前は社員・準社員のみの制度で、工員への拡大は戦後 |
| 養成工制度(三菱1899、日立1910、大戦後に本格普及) | 企業内訓練、高卒技能職の育成 | 連続。企業が技能形成を担うという分業がここで確定した |
| 退職金制度(1935年に100人以上企業の36%、1936年に法制化) | 退職給付制度、確定給付・確定拠出年金 | 直接連続。失業保険ではなく企業の退職金で失業に備えるという分岐がここで生じた |
| 横断組合の敗北(1921年) | 企業別組合 | 間接的な連続。企業別組合の直接の起源は産業報国会(第5章)と占領期(第6章)だが、企業横断的な組織が定着し損ねた事実はここで確定している |
| 労働組合組織率7.9%(1931年、戦前最高) | 2020年代の推定組織率は16%台 | 数字としては現代の方が高い。戦前の労働組合はついに法的承認を得られなかった(法案は1920・1925・1931年の3度とも不成立) |
| 日本製鐵(1934、銑鉄96%) | 日本製鉄株式会社 | 断絶を挟む連続。1950年に八幡製鉄・富士製鉄へ分割され、1970年に新日本製鐵として再合同 |
| 王子製紙の大合同(1933、シェア8割超) | 王子ホールディングス/日本製紙 | 断絶を挟む連続。1949年に過度経済力集中排除法で苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙に分割 |
レイヤーごとの答えです。
- ① 資本と所有:戦前の株主は「額面までの追加出資義務」を負っていた。額面の4分の1を払えば株主になれる代わりに、会社は取締役会の決議だけで残りを請求でき、応じなければ失権・公売、不足分は元株主に、さらに売却後2年間は譲渡人にも請求が及ぶ。大分セメントは時価20銭の株に6円50銭を請求して失権165名で完了させ、1932年度には企業の長期資金調達の62.5%がこの追加払込だった。恐慌下で唯一機能した資金調達手段であると同時に、株主に選択肢のない仕組みでもあった
- ② 組織と統治:法人格を分けることと、権限を渡すことは別だった。三菱は1917年から事業部を別会社にしたが、分系会社は正員の採用権すら持たず、粕谷誠は「アメリカの意味での事業部長に相当するミドルマネジメント」より権限が小さいと評価する。採用権の委譲は1932年。逆に松下は同一法人内の事業部に独立採算を持たせた(1933年)。そして財閥転向で1933年に公開されたのは傍系株だけで、三井鉱山の公開は1939年末、三井物産は1942年である
- ③ 雇用と人事:定着は始まったが、それは選別の副産物だった。離職率は40〜100%から5%へ落ちたが、A・ゴードンは行き先がなくなっただけで移動層が支配的だったと留保する。新卒一括採用は社員・準社員だけの制度で、工員は随時採用のまま。そして1930年前後の20〜30%の賃金カットは、女子より男子、不熟練より熟練、短勤続より長勤続の削減率を小さく設定した。年功的処遇は温情ではなく、「誰を残すか」の選別基準として立ち上がっている。1921年に3万人が横断組合を求めて敗れ、組織率は1931年の7.9%が戦前の頂点だった
次章では、これらがすべて国家の設計対象になります。 国家総動員法以降の統制経済のもとで、株主の権利は制限され配当が統制され、 軍需会社法(1943)が生産責任者制度を導入し、直接金融から間接金融への転換が起きます。 産業報国会(1938→1940)が労使を一体化させ、生活給思想と定期昇給が制度化される。 野口悠紀雄が『1940年体制』で提起した問い——戦後日本企業の設計図は、いつ引かれたのか——に、正面から向き合います。
理解度チェック
戦前の株式分割払込制度において、会社が株主に未払込分の「追加払込」を請求するには、どの意思決定が必要でしたか?
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