器はできた。では、何が流し込まれたのか
第2章で、日本は「会社」という器を手に入れました。1893年7月1日の旧商法会社編で一般の会社に株主有限責任が及び、 1899年6月16日の新商法で会社設立が準則主義になります。 要件を満たせば当然に会社が成立する——法制度としては、ここで輸入が完了しました。
この章の問いは、その先です。できた器に、誰が何を流し込んだのか。
答えは3つあります。ひとつは資本で、その集約装置として「持株会社」が発明されました。 ひとつは機械と燃料で、紡績・鉄道・製鉄・電力・鉱山が装置産業として立ち上がります。 そして最後のひとつが人です。そこで何が起きていたかは、第1章・第2章と同じやり方——通説の数値を疑うこと——で確かめます。
産業革命期の年表
大阪紡績、操業開始
プラット社製ミュール精紡機15台・総錘数10,500錘、労働者300人弱。1886年9月には夜業用の電灯が点灯し、民間自家発電の草分けとなる。それまでは650基の石油ランプで、綿塵による発火の危険が常にあった。「大規模・蒸気力・24時間操業」という日本型紡績のモデルが成立する。
足尾銅山が産銅量で全国一に
古河市兵衛が着手した1877年の粗銅生産は約49トン。1882年に273トン、1884年に2,286トン(全国の26%)、1886年に4,361トン。10年で桁が2つ動いた。銅は1890年に総輸出額の9.5%を占める主要輸出品になる。
綿糸の国内生産量が輸入量を上回る/鉱業条例
輸入代替の達成。同年、上海経由・厦門向けの本邦最初の綿糸輸出も行われた。鉱業条例(法律第87号)は国家独占から鉱業自由主義へ転換し、同時に鉱業権を日本人・日本法人に限定して外資を排除した。
私鉄が官鉄を圧倒
営業キロは官設885km、私設2,124km。私鉄が官鉄の2.4倍。1900年には官設1,206km対私設4,674kmで3.9倍に開く。電気事業者はこの年まだ11社だった。
日本郵船がボンベイ航路を開設
11月7日、第1船「広島丸」が神戸を出港。当時の日印航路は英・墺・伊3社の「ボンベイ・日本海運同盟」が支配していた。これをタタ商会・紡績聯合会と組んで突き崩す。原料調達の海運支配権を握ることが紡績業の競争力に直結していた。渋沢栄一が調整役を務めた。
釜石でコークス製銑に成功/職工争奪戦
田中長兵衛の釜石鉱山田中製鉄所が日本初のコークス銑鉄生産に成功。官営八幡より7年早く、民間が到達していた。同年、中央綿糸紡績業同盟会と鐘淵紡績の間で職工争奪戦が関西を中心に展開し、1898年に妥協が成立する。
造船奨励法・航海奨励法
3月24日公布・10月1日施行。鉄鋼製1,000総トン以上(後に700総トンへ拡大)の船に1トンあたり20円、機械は1馬力あたり5円を補助。日清戦争時に国内船腹16万トン余で船舶不足に苦しんだ経験が動機。1901年には汽船建造が3万トンに達し、初めて輸入船腹トン数を上回る。
綿糸の輸出量が輸入量を上回る/貨幣法/鉄工組合
輸入代替から輸出産業への転換。この年を産業革命の完了とする説がある。同年、日清戦争賠償金を準備金として貨幣法が金本位制を確立(純金0.75g=1円)。そして日本最初の労働組合とされる鉄工組合が結成された。
官営八幡製鉄所、第一高炉火入れ
2月5日火入れ、11月18日作業開始式。建設費は日清戦争賠償金。しかしコークス炉がなく鉄鉱石の性質も欧州と異なったため銑鉄生産は予定の半分にとどまり、1902年7月に操業停止。1904年7月23日の第三次火入れで、釜石の顧問だった野呂景義の改良により軌道に乗る。
全国出炭量が1,000万トンを突破
正式記録が始まった1874年は約21万トン、1883年100万トン、1888年200万トン。筑豊炭田は1896年に全国生産高の過半を占めた。同年、東京と大阪で路面電車が開業する。
四阪島製錬所が操業開始/鉱業法
住友が別子銅山の煙害対策として新居浜沖18kmの無人島へ製錬所を移転。しかし煙害は解決せず愛媛県沿岸部に拡大し、最終解決は1939年の亜硫酸ガス中和脱硫成功まで34年を要した。同年3月8日、鉱業法(法律第45号)が鉱業権を物権化する。
鉄道国有法
3月31日公布・4月20日施行。1906年10月から1907年10月にかけて主要17社を買収。買収後の官設営業キロは約7,100km(買収前の約2.75倍)、国鉄の営業距離シェアは90.9%に達した。交付された5分利公債は私鉄の払込資本総額の約2倍にあたる。
駒橋発電所 運転開始/日本製鋼所/日露戦後恐慌
12月20日運転開始。出力15,000kW、山梨から東京へ55kV・76kmの長距離送電。全国総出力の13%を1か所で占めた。同年、北海道炭礦汽船と英ヴィッカース・アームストロングの合弁で日本製鋼所が設立される。一方1月に東京株式市場が大暴落し、10月から日露戦後恐慌に入る。
三井合名会社 設立/綿織物の輸出額が輸入額を超える
資本金5,000万円、出資社員は三井11家当主のみ(北家23.0%、他5本家各11.5%、5連家各3.9%。三井文庫は本家を10.5%と記すが、それだと合計が95%にしかならず要検証)。同時に三井銀行・三井物産が株式会社となる。この年の全国工場数は32,282、従業者852,160人で、うち57%が繊維産業の職工だった。
工場法 公布(施行は1916年)
3月29日公布。児童雇用禁止、年少者・女子の労働時間規制と深夜業禁止、工場主の労災補償責任を定めた日本初の労働者保護法。しかし紡績・製糸の雇主の反対で施行が5年半延期され、適用は職工15人以上の工場に限定、深夜業も期限つきで容認された。
東洋紡績 成立
6月26日、三重紡績と大阪紡績が対等合併。資本金1,425万円、精紡機44万錘、織機1万台超。社長は山辺丈夫、副社長は伊藤伝七。渋沢栄一が両社の相談役として仲介し、社名も「東洋一の大紡績に」という願いから渋沢が命名した。紡績会社数は1899年末の78社から1911年末の32社へ減っている。
レイヤー① 資本と所有 — 持株会社という発明
1930年の三井合名を、数字で解剖する
財閥という言葉から想像されるのは、たぶん「巨大な同族企業グループ」でしょう。 しかし持株会社が何をする装置だったのかは、持株比率の実数を見ないと分かりません。
三井合名会社の傘下企業持株比率(1930年。出典: Randall Morck & Masao Nakamura, NBER 表7.4)
くっきりと二層に割れています。 三井銀行・三井物産・三井鉱山・東神倉庫という直系は100%。 王子製紙24%、日本製鋼所12.5%、鐘淵紡績5.3%という傍系は5〜56%。 そして目を引くのが、創業事業である三越の0%です。 呉服商から始まった三井にとって、1904年に百貨店化した三越はもうピラミッドの外にありました。
レバレッジの実効を見ましょう。1930年の三井合名は自己資本3億円です。 それに対して、直系・傍系あわせて40社・資本金合計10億3,700万円を支配していました。約3.5倍です。 しかも1914年の第一次大戦直前には11社・1億6,000万円だったので、 16年で社数3.6倍、資本金6.5倍に膨らんでいます。
graph TD K["三井11家当主"] G["三井合名会社<br/>自己資本 3億円<br/>合名・無限責任"] D["直系会社<br/>持株比率 100%<br/>銀行・物産・鉱山・倉庫"] B["傍系会社<br/>持株比率 5〜56%<br/>王子製紙・鐘淵紡績ほか"] S["孫会社群"] K -->|"出資"| G G -->|"全額所有"| D G -->|"部分出資"| B D -->|"新規事業を子会社化"| S style G fill:#2563eb,stroke:#1d4ed8,color:#fff style K fill:#8b5cf6,stroke:#7c3aed,color:#fff style D fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff style B fill:#1e1a2e,stroke:#3c365a,color:#ededed style S fill:#1e1a2e,stroke:#3c365a,color:#ededed
なぜ持株会社だったのか — 通説とは違う答え
ここで素朴に思いつく説明は「株式会社にして外から資本を集めるため」でしょう。 ところが、経営史の実証はこれを支持しません。
この三井合名体制は、危険分散を図るために有限責任制を採用し、また所得税を節約するためになされたのであり、株式会社制度を利用した外部資金の動員は意図されていなかった
(武田晴人『日本経済の発展と財閥本社——持株会社と内部資本市場』東京大学出版会、2020年。阿部武司の書評による整理)
つまり構造は非対称でした。
| 階層 | 法形態 | 責任 | 狙い |
|---|---|---|---|
| 本社(三井合名・三菱合資) | 合名・合資 | 無限責任 | 持分の外部譲渡を封じ、同族の支配権を100%維持する |
| 事業会社(三井銀行・物産・鉱山) | 株式会社 | 有限責任 | 事業リスクを株式会社の壁で遮断し、本社と同族の資産に及ばせない |
第2章で見た益田孝の1906年意見書——「三井元方に法人格がなく無限責任の合名会社では三井家の資産を守れない」——は、 外部資金を入れたいという話ではなく、守りの話だったわけです。
同じ「持株会社」でも設計思想が正反対だった
三井と三菱を並べると、持株比率の考え方がまったく違います。
| 三井 | 三菱 | |
|---|---|---|
| 直系子会社への平均出資比率 | 約66% | 約30% |
| 2階層目(子会社の子会社) | 約9% | 約18% |
| 外部資金の導入姿勢 | 消極的。厚く持つ | 積極的。公募増資で薄く広く |
| 同族の事業の自由度 | 三井家憲が同族会の許可を要求 | 定款は各岩崎家が独自に収入を持ち事業を起こすことを許した(東京海上・明治生命・旭硝子・麒麟麦酒などは法的に三菱合資の外) |
| 象徴的な出来事 | 直系100%を維持し続ける | 1920年、三菱鉱業株をプレミアム付きで公開し株主が激増 |
三菱が薄い持分で資本集約産業(造船・鉱業・電機)へ広く展開できたのは、 この設計の違いによるところが大きい。 1911年の7部制から、1917年 三菱造船・三菱製紙、1918年 三菱商事・三菱鉱業、1919年 三菱銀行、1921年 三菱電機と、 事業部が次々に独立した株式会社になっていきます。 第2章で見た「所有は集中、執行は分権」という原型が、ここで法人の形をとりました。
大元方から200年、持分比率はほとんど動いていない
第1章の三井大元方は、宝永7年(1710年)から記録が始まる資本の集約・再配分装置でした。 それが三井合名になるまでの持分比率を追跡すると、驚くほど連続しています。
| 年 | 出来事 | 惣領(北家)の持分 |
|---|---|---|
| 1694年(元禄7) | 三井高利の遺言。家産を70に分割 | 29/70 = 41.5% |
| 1722年(享保7) | 高平の遺言(宗竺遺書)。220に分割 | 62/220 = 28.2% |
| 1900年(明治33) | 三井家憲 施行(全109条) | —— |
| 1909年(明治42) | 三井合名会社 設立。1000に分割 | 230/1000 = 23.0% |
分家が増えて希薄化はしていますが、「惣領が最大持分を持ち、同族が分割不能な共有財産として事業資産を保有する」という設計は200年以上不変です。 三井家憲(1900年)が定めた持分割合が、そのまま三井合名の出資社員持分になりました。
安岡重明はこれを総有制——事業資産を「分割不能な共有財産」とする財閥特有の制度——と呼びます。 持株会社とは、江戸期の総有制を近代法の器に移し替えたものだった、と読めます。 ただし武田晴人は、この総有制が「財閥の展開を最後まで制約していた」とも指摘しています。 同族の外に出せない資産は、大きくなればなるほど動かしにくくなるからです。
第2章で見た三井家憲(1900年、全109条)には、その閉鎖性を支える条文があります。
第14条 同族間ニ如何ナル争ヲ生スルモ、裁判所ニ出訴スルコトヲ許サス
(三井家憲、1900年7月1日施行。三井文庫)
同族間の争いを近代法の外側に置くという宣言です。 三井合名の定款も社員が持分を他人に譲渡・担保に入れることを禁じており、 合名会社の無限責任と持分譲渡禁止は、この家憲があって初めて機能しました。
機関銀行を持たなかった商社は、どう死んだか
「持株会社+系列銀行」という構造の価値は、それを欠いた企業の運命を見ると分かります。
鈴木商店は、金子直吉のもとで第一次大戦期に急拡大し、三井物産・三菱商事と並ぶ商社の第一集団にまで駆け上がりました。 しかし自前の銀行を持たず、資金は台湾銀行のコール(短期資金)に依存していました。
1927年の金融恐慌で、その台湾銀行が追い詰められます。最大の貸し手だった三井銀行が、台湾銀行休業の3週間前に3,000万円のコール資金を全額引き揚げたのです。 4月5日、鈴木商店は事業停止・清算に至りました。 三井銀行の鈴木商店への貸付残高は担保付5〜600万円にすぎず、 池田成彬は後に「台湾銀行コールの引き揚げがパニックの端をなした」と批判されています。
資本の大移動 — 鉄道国有化という再配分
国有化前、日本の鉄道は圧倒的に民営だった
現在の感覚だと意外かもしれませんが、明治の日本の鉄道は民営が主役でした。
官設鉄道と私設鉄道の営業キロ(出典: 国立国会図書館、Wikipedia 鉄道国有法)
1900年時点で私設は官設の3.9倍。しかも資本規模が桁違いでした。 1903年時点の日本鉄道の資本金は6,600万円、山陽鉄道は払込2,400万円です。 1914年に成立した東洋紡績——当時最大級の紡績会社——の資本金が1,425万円ですから、鉄道1社が最大の製造業企業の数倍という世界でした。
その資本は誰が出していたか。第2章の金禄公債がここに戻ってきます。 1881年設立の日本鉄道は華族・士族の金禄公債を資本として創立され、 政府が建設中の資金利子(8%)を肩代わりし、官有地を無償で払い下げた実質的な半官半民会社でした。 明治中頃には14社の鉄道会社が上場され、大株主の42%を皇室と華族が占め、皇室単独で全国102社159万株のうち23万株を保有していました (岩崎家19万株、三井家13万株)。
1906年、日本最初の巨大な資本再配分
1906年3月31日公布の鉄道国有法により、1906年10月から1907年10月にかけて主要17社が買収されます。
鉄道国有法による買収価格(1906〜07年、上位8社+その他。出典: Wikipedia 鉄道国有法の個表より作成)
買収後、国鉄の営業距離シェアは90.9%、旅客輸送83.8%、貨物輸送91.4%、従業員数88.4%に達しました。 日本の鉄道は、20年あまりで民営優位から国有独占へ反転したことになります。
この章にとって重要なのは、買収代金の性格です。 政府は年利5%の公債を発行して被買収会社に交付しました。そして——
ここで起きたことを整理すると、こうなります。幹線鉄道という「日本最大の投資先」が、民間の選択肢から消えた。 同時に、その株主だった皇室・華族・財閥・大商人の手元に、 払込資本の2倍という巨額の流動性が公債の形で生まれた。
そして同じ頃、電力業が立ち上がります。
電気事業者数の推移(出典: 日本ガイシ「がいしの歴史」、電気事業連合会)
1907年12月20日、東京電燈の駒橋発電所が運転を開始します。 出力15,000kW、山梨県から東京へ55,000ボルト・76kmの長距離送電。 木柱3,974本と鉄塔22基(アメリカ製)を使いました。 この年の全国の電力設備は火力76,000kW・水力38,600kWですから、駒橋1か所で全国水力の約39%、総出力の13%を占めたことになります。 電力が「都市内の小規模な火力」から「遠隔地の大規模水力+長距離高圧送電」へ移り、巨額資本を要する装置産業になった瞬間です。
産業革命の非対称性 — 綿糸は勝ち、鉄はまだ負けていた
「日本の産業革命」と一括りにすると見えなくなるものがあります。 産業ごとに、自立の達成時期がまったく違いました。
| 産業 | 自給の達成 | 輸出への転換 | 本章の期間での到達点 |
|---|---|---|---|
| 綿糸 | 1890年に国内生産量が輸入量を上回る | 1897年に輸出量が輸入量を上回る | 1898年に紡績錘数100万錘超。1899年に紡績会社の資本金が全工業の25% |
| 綿織物 | —— | 1907年に輸出量、1909年に輸出額が輸入を超える | 1913年、中国市場で日本糸の輸入量がインド糸を超える |
| 鉄鋼 | 未達成 | 未達成 | 1908年でも自給率は銑鉄60%・鋼材わずか20%。大部分を輸入に依存 |
| 造船 | 1901年に汽船建造3万トンで輸入船腹トン数を上回る | —— | 造船奨励法の存続期間中に267隻・約100万トンを建造 |
ここが決定的です。八幡製鉄所は国内では圧倒的だが、日本全体はまだ鉄を輸入していた。1908年の八幡のシェアは銑鉄71%・鋼材98%ですが、同じ年の日本の鉄鋼自給率は銑鉄60%・鋼材20%にすぎません。綿糸が1897年に輸出産業になったのに対し、鉄鋼の自給達成は10年以上遅れたわけです。
工場統計はこの非対称をさらにはっきり示します。
業種別の職工数(大正3年=1914年。出典: 工業統計)
1914年時点で職工の過半が繊維、機械工業は約10%にすぎません。 「産業革命=重工業」というイメージとは相当に違う姿です。
そして工場数と従業者数の動きが、この時期の本質を語ります。
| 1909年(明治42) | 1914年(大正3) | 変化 | |
|---|---|---|---|
| 工場数 | 32,282 | 31,717 | 微減 |
| 従業者数 | 852,160人 | 1,017,619人 | 約19%増 |
| 1工場あたり従業者 | 約26.4人 | 約32.1人 | 約22%増 |
工場の数は増えていないのに、働く人は2割増えている。つまり起きていたのは工場の新設ではなく、1工場あたり規模の拡大=資本集約化でした。 紡績会社数が1899年末の78社から1903年末46社、1911年末32社へ減る一方で錘数は増え続けたのと、同じ現象です。
レイヤー② 組織と統治 — 技術者を留学させて作る
大阪紡績はなぜ成功したのか
1880年前後、政府は輸入防遏のために英国からミュール機を輸入して民間に払い下げました。 規模から「二千錘紡績」と呼ばれたこれらは、ほとんど成功しませんでした。 大阪歴史博物館の整理によれば、失敗の理由は3つです。
| 二千錘紡績の失敗要因 | 大阪紡績の解 |
|---|---|
| 規模が小さかった(2,000錘) | 当初から10,500錘。1889年の第3工場で30,000錘を追加 |
| 動力に水源利用を選び多大の費用がかかった | 各地の河川を調査したが安定水量が得られず、1881年末までに蒸気機関へ変更 |
| 原料が国産綿花で機械に適していなかった | 1889年からインド綿の輸入を開始。国産の「大阪上棉」では17番手以上の紡出が至難だった |
ここに4つ目の要素が加わります。電灯です。夜業の照明は当初650基の石油ランプで、紡機から出る綿塵による発火の危険が常にありました。 そこで米国エジソン電気会社に発電機を発注し、1886年9月に夜業用電灯を点灯させます。民間自家発電の草分けでした。電灯は照明である以上に、24時間操業を可能にして固定資本の回転率を上げる装置だったわけです。
もうひとつ、株式会社であることの帰結が効いています。 大阪紡績は1883年7月5日の操業開始から8月には昼夜2交替制に入りますが、 その理由は「1880年10月の発起から操業まで3年待たせた株主への配慮」でした。 第2章で見た「物言う株主」——横領事件後の繰越金まで配当に回せと迫る株主たち——が、 ここでは24時間操業への圧力として現れています。
大阪紡績の上期配当率の推移(出典: 大津寄[1993]195頁、山崎泰央 法政大学IMRC WP No.137 所収)
1888年上期の36%という配当率が、この時期の紡績業の異常な高収益を示しています。 一方で1900年には開業以来初の赤字(84千円)と無配に転落しました。投機的な高収益と不況の振幅が、株式会社形態を通じて株主に直撃していたことが数字で追えます。
「技術者を留学させて作る」という型
大阪紡績の技術責任者だった山辺丈夫の経歴は、この時代の日本企業がどうやって技術を手に入れたかを示す典型例です。
- 1877年、旧藩主の子息の英国留学に随行して渡英。当初は保険事業を学ぶためロンドン大学に入学し、W.S.ジェヴォンズに経済学を学ぶ
- 1879年、渋沢栄一から紡績技師招聘の依頼。1か月余の熟考の末に承諾し、キングス・カレッジに転じて機械工学と機関学を学ぶ
- 「理論ばかりでは役に立たない、実際工場に入て、その製造の実地に就いて研究しなくては分からない」と考えマンチェスターへ。受入工場が見つからず、地元紙に「プライメーヂ付きで、紡績工場に入りたい」と広告まで出した
- ブラックバーンのローズヒル工場で実習許可を得て、1879年9月1日から毎日8時間、一職工として労働。翌年5月まで滞在
渋沢が研究費として送金したのは1,500円——本人が「清水の舞台を飛び降りたつもりで出した」大金でした。 渋沢の考えはこうです。
西洋人を聘して、種々の滑稽を演じ、ついに失敗を取った例もある、 どうしても其の中堅となるべき人物は、日本人でなくてはならぬ
(石川[1923]121頁、山崎泰央 前掲論文より)
この型は複製されます。三重紡績では渋沢の指導で工部大学校卒の斎藤恒三を迎え、やはり英国留学させました。 菊池恭三は工部大学校機械工学科を出て、英国留学を条件に平野紡績へ入社し、 マンチェスター・テクニカル・スクールで学んでいます。
重工業の管理会計は、慶應の簿記から来た
第2章で三菱の規則・複式簿記を設計した人物として登場した荘田平五郎が、 1897年から1906年まで長崎造船所長を務めます。そこで彼がやったことは示唆的です。
- 1897年の造船奨励法公布を機に設備拡張と大型船建造に着手
- 同年、長崎造船所に工業会計・原価計算制度を導入
- 日本郵船の欧州航路向け新造船のうち1隻を長崎で建造することを主張して実現。それが常陸丸(1898年竣工、6,172総トン)
常陸丸は日本で初めて総トン数6,000トンを超えた国産商船です。 それまでの最大建造実績が須磨丸1,592トンでしたから、約4倍の跳躍でした。 建造中、ロイド・レジスターの検査官からリベット工事を指摘され、60万本を超えるリベットのうち不完全なものを全て打ち直しています。 国際船級基準への適合が、技術水準を実力以上に引き上げた例です。
慶應義塾の教員だった人物が、重工業の原価計算を設計する。 第2章で見た「学卒者が専門経営者になる」という流れは、この段階で製造現場の管理技術にまで届きました。
需要を自分で作るという発明
この時期の経営で、もっとも現代的に響くのは小林一三でしょう。 第2章で「中上川が採用した慶應義塾出身者」として名前だけ出た人物です。
1907年10月、箕面有馬電気軌道の専務取締役に就任した小林は、 予定沿線の牧歌的風景を見て、こう考えました。人口急増で住宅事情の悪い大阪市内より郊外に良い住宅地を作り、その居住者を電車で市内へ運ぶ。
- 1909年、呉服神社周辺の2万7千坪を買収して郊外型住宅の開発に着手
- 1910年、軌道開通に合わせて池田室町住宅地の販売を開始。1区画100坪を目安とし、10年の月賦販売という斬新な方法を導入
- これが日本初の鉄道会社による分譲住宅地
鉄道単体では採算が取れない路線を、沿線の土地・住宅・娯楽(後の宝塚・百貨店)とセットで黒字化する。「輸送需要を自分で作る」というこのモデルは、欧米にも類例が乏しい日本発の発明で、 以後の日本の私鉄経営の原型になりました。
ここで章の構造が見えてきます。幹線鉄道が国有化された1906〜07年の直後に、私鉄の生き残り方が変わったのです。 1910年の軽便鉄道法以降、民間資本は地方支線と都市近郊電鉄へ向かいます。 国が幹線を取ったから、民間は「沿線に街を作る」という別の商売を発明した——そう読むこともできます。
レイヤー③ 雇用と人事 — 流動性は誰が作っていたか
「離職率7〜8割」という数字を追跡する
明治期の工場労働について、必ず引かれる数字があります。「紡績女工の離職率は年7〜8割だった」。 第1章で丁稚の勤続年数を、第2章で「500社」を検証したのと同じやり方で、この数字を追いかけました。
結果は指標のすり替えでした。 検証可能な一次データとして存在するのは、離職率(一定期間に何人辞めたかというフロー)ではなく、ある時点で勤続1年未満の人が何%いたかという構成比(ストック)です。この2つは別物です。
そして、実際の数値を並べると、通説よりずっと面白いことが見えてきます。
愛知県内の紡績工場における勤続1年未満者の比率(1894年。出典: 藤村道生「『職工事情』以前の繊維労働者の状況」九州工業大学『人間科学』17号 表6-9)
同じ愛知県の紡績工場です。しかし——
- 全員が地元から通勤していた愛知紡績所は、1年以上勤続が92.6%(1年未満は7.4%)
- 寄宿率34.4%の名古屋紡績は、女工全体で1年以上勤続48.6%
- その名古屋紡績の寄宿女工に限ると、1年未満が67.3%
募集費が16倍違った
この構造は、コスト面からも裏が取れます。工女1人あたりの募集費を大日本綿糸紡績同業連合会が調査していました。
工女1人あたり募集費の企業間格差(1897年頃。出典: 大日本綿糸紡績同業連合会の調査、藤村道生 前掲論文 表3-5)
最高の和歌山紡13.800円と最低の尾張紡0.847円で約16倍。 隣接する三重紡が尾張紡の5.8倍というのは、同一地域内でも「地元調達で足りる工場」と「遠隔地から買ってくる工場」で調達コストが桁違いだったことを示します。 前の定着率の差と完全に整合する数字です。
『職工事情』が記録したもの
農商務省商工局『職工事情』は明治34年(1901年)の調査に基づき、明治36年(1903年)4月に刊行されました。 募集の実態について、こう書いています。
各地方の紹介人は職工となるべき相当の婦女につき勧誘をなすなり。この勧誘をなすについて職工生活の快楽をのみ説明し、毫もその疾苦の状に及ばざるを常とす。 例えば労働時間には一定の制限ありて、それ以上は各自自由なる生活をなすを得ること、毎週一日の休業日あり、その日には芝居見世物の観覧をなすを得ること、 寄宿舎の食物は極めて美味にしてしかも無料なること……紹介人は職工一名につき工場より大概一円内外の手数料を得るのみならず、場合によっては特別の賞与を受くることを思わば、この種の甘言欺瞞も強ち無理ならざることを知るべし。
……会社はその逃亡を防ぐため諸般の手段を講ぜり。たとえば入場後数月間は休日といえども外出を許さず、 賃金支払日の前日位に外出せしめ、又はやむを得ず外出せしむる場合には付添人を付し、 また賃金支払後数日間は特に寄宿舎の周囲に見張人を巡回せしむるの類なり。 ……中には夜間牆壁を越え脱走する者あり。しかれどもこれらは見張人のため捕えられ懲罰を受くるもの多し。工女逃亡の報、常に新聞紙上に絶えざるは主としてこの事情に基づくなり。
(農商務省『職工事情』1903年。犬丸義一校訂・岩波文庫版より、濱口桂一郎『職業紹介法・職業安定法の一世紀』JILPT資料シリーズ 2023年 pp.15-16 所引)
募集人の周旋料は明治前期には女工1人につき約1円でしたが、募集競争が激化した明治後期には約20円——20倍に高騰しました。 「工女ノ払底」は当時の紡績経営者にとって最大の経営課題だったのです。
年功賃金の萌芽か、逃亡防止か
横山源之助『日本之下層社会』(1899年)には、ある紡績会社の募集条件がそのまま収録されています。明治期の雇用条件を一次史料で丸ごと読める、貴重な史料です。
応募工女心得
一 工女は年齢十二歳から三十五歳までで身体の壮健なる者に限る
一 年期は三年とし、入社のときに契約書を入れて年期中はつとめねばならぬ……
一 仕事は糸紡でこれは大きな器械をつかう故あまりほねおれず、毎日十二時間の仕事の中で一時間づゝ休みがあり、一週間づゝ昼と夜と交代り……
一 ……大人は仕事場により最初より日給拾壱銭か拾弐銭を与へ……
一 積金は保証積金、貯蓄積金とあつて、保証積金は日給拾弐銭以上の者より賄料を引去つた残で壱割五分づゝ積立てゝ満期時より払渡さず、貯蓄積金も壱割五分……その残七割は毎月本人に渡す
一 ……又た一年以上居たものには皆勤賞与の外に尚ほ一ケ月拾五銭づゝ、それより上は一年毎に一ケ月拾銭増し、三年以上は一ケ月参拾五銭づゝを与える
一 契約年限間誠実につとめた者は、慰労として一年に参円づゝの割で給金やら賞与の外に金を与へる。尚ほ引続き勤めた者は一年五円を与へる。
(横山源之助『日本之下層社会』1899年。JILPT資料シリーズ pp.14-15 所引)
ここには勤続年数に応じた手当の逓増(1年以上=月15銭、以後1年ごとに月10銭増、3年以上=月35銭)と、契約年限を勤めた者への慰労金(年3円、継続すれば年5円)が明記されています。 1899年の時点で、すでに「年功的インセンティブ」が民間紡績会社の募集条件に組み込まれていたわけです。
これを「日本的雇用の起源」と読みたくなります。しかし、数字を突き合わせると別の姿が見えます。
| 項目 | 金額 | 日給11〜12銭に対する比 |
|---|---|---|
| 3年以上勤続の年功手当 | 月35銭 | 約3日分の日給 |
| 製糸工場のデニール罰(罰金)の上限 | 32銭(1件あたり) | 約3日分の日給 |
| 保証積金(賃金の15%) | 満期まで払い渡されない | 実質的な人質 |
「渡り職工」は一枚岩ではなかった
紡績が女工の世界だったのに対し、造船・機械の熟練工は渡り職工と呼ばれ、企業間を移動するのが常態でした。 ただしこの「渡り」も、職種によってまったく様相が違います。
1906年、横須賀海軍工廠は職工15,810名のうち「戦時余人ヲ以テ代フ可カラサル者」=821名(5.2%)を基幹熟練工として海軍省に報告しました。 その本籍地を職種別に見ると、こうなります。
横須賀海軍工廠の基幹熟練工821名の職種別・地元本籍率(1906年。出典: 鈴木淳「横須賀海軍工廠の労働力をめぐって」明治大学『経営論集』71巻4号、2024年。原史料は防衛研究所蔵 海軍省「明治39年公文備考」)
鋳工・潜水工・煉瓦工は100%が地元。木工は17.9%、造船工は34.5%。つまり「渡り職工」は職工一般の性質ではなく、職種=同職集団ごとにまったく違うのです。 在来技能の延長にある木工・造船工は8割前後が他地域出身で、 工廠固有の技能である鋳工・潜水工は地元で育てるしかなかった。技能の性格が、労働市場の広がりを決めていました。
移動の経路も具体的に追えます。千葉県出身の造船工16名中11名が安房郡、 新潟県の木工13名中7名が西蒲原郡でうち3名が岩室村——村単位で工廠に人を送り出すネットワークが存在していました。
財閥の資本蓄積と、労務調達はつながっている
この章の前半で見た財閥と、後半の労働は、一次史料の中で直接つながります。 三菱が経営した高島炭鉱(長崎県)についての記録です。
最初礦山寮ニ属スル頃ハ長崎県ノ囚徒ヲ以テ之レニ充テシガ、後藤氏及岩崎氏ノ手ニ帰スルニ及ビテハ、以前ノ如ク囚徒ヲ使役セズ、 長崎近傍ニ於テ坑夫ヲ募リシニ、皆之ヲ忌ミテ募リニ応ズル者甚少シ。依テ岩崎氏ハ請負人乃チ納屋頭ナル者ヲ設ケ、坑夫ヲ雇入レ且取締ヲ為サシメタリ。納屋頭ハ各地方ノ博徒其ノ他ノ者ニ依頼シ、殆ンド誘拐同様ノ手段ニテ雇入レタレバ、 目下本坑ニ従事スル坑夫ハ皆其ノ姦計ニ陥リタルコトヲ悔ヒ……炭坑社ハ其賃銀ヲ直接ニ坑夫等ニ贈与セズ、納屋頭ニ下附スルコトトシ、坑夫中ヨリ炭坑社ニ苦情ヲ訴フルヲ許サザル也。
(吉本襄「高島炭坑々夫虐遇ノ實況」『高島炭坑問題』。『明治文化全集第6巻 社会篇』日本評論新社、1955年所収)
納屋制度——親方(納屋頭)が労働者の調達・管理・賃金支払いを一手に握る間接管理の仕組みです。 賃金が本人ではなく納屋頭に渡され、会社への苦情申立てが許されない構造でした。 三井の三池炭鉱でも三池集治監の囚人労働が使われ、宮原坑は「修羅坑」と呼ばれています (囚人による採炭の廃止は1930年)。
足尾銅山の従業員構成は、身分の境界線を数字で見せてくれます。
| 区分 | 人数(1906年) | 要件 | 給与形態 |
|---|---|---|---|
| 役員 | 319人 | 原則、工手学校以上卒。1〜8級 | 月給制 |
| 準員 | 387人 | 現場労働者からの登用。9〜10級 | 日給制 |
| 鉱夫ほか | (従業員総数11,105人) | —— | 日給・請負 |
学歴で入った者は月給、現場から上がった者は日給。給与形態そのものが身分の線でした。 第2章で見た「学卒者が専門経営者になる」流れの、ちょうど裏側にあたる構造です。
そして1907年、足尾(2月4〜7日)と別子(6月4日)で相次いで暴動が起きます。 足尾では建物65棟が焼失・破壊され、高崎連隊3個中隊が鎮圧に投入されました。
労働市場の流動性を、企業側が協定で封じようとした
雇用の未成熟を最もよく示すのは、企業側の行動です。 1894年、中央綿糸紡績業同盟会と鐘淵紡績の間で職工争奪戦が関西地方を中心に展開されました。 1898年に両者の妥協が成立し、同盟会規約の部分修正と鐘紡の同盟会加入が実現します。 同時代にはこれが「紡績会社職工待遇上の一大転機」と評されました。
これは要するに資本家側の引抜き禁止カルテルです。 労働者の移動を、企業間の協定によって封じ込めようとした最初期の試みでした。 同じ頃、大日本紡績連合会は製品の操業短縮カルテルを運営しています。製品市場でも労働市場でも、カルテルが競争を管理していたのがこの時期の姿です。
しかも、それを行政が後押ししていました。 1899年8月19日の大阪府職工募集取締規則(府令第73号)は、こう定めています。
第三条 他ニ雇ハレ中ノ職工又ハ雇人ニ対シテハ募集又ハ勧誘ヲ為スコトヲ得ス
(大阪府職工募集取締規則、明治32年8月19日 大阪府令第73号)
在職中の職工への勧誘の禁止——引抜き禁止を、府令が制度化していたわけです。 同規則は募集にあたって工場管理者に、賃金額・契約年限・就業時間・休日・賞与懲戒貯金・教育に関する方法などを 10日前までに警察官署へ届け出ることも義務づけています。 山形県は募集区域を限って許可し、新潟県は工場が使う募集人の員数を制限しました。労働市場の流動性は、企業カルテルと行政規制の両方から押さえ込まれていたことになります。
勤続年数が、初めて人事ルールに書き込まれた日
では、企業が「長く勤めてほしい」と考えはじめたのはいつか。 確認できるもっとも早い制度化のひとつが、1907年4月の横須賀海軍工廠の採用方針です。
- 十か年以上勤続した職工の実子もしくは養子
- 勤続十年に満たないが技能優等で将来有望な職工の実子もしくは養子
- 1の家族 4. 2の家族
- 三か年以上勤続した雇傭人の家族
- 三浦郡、鎌倉郡、久良岐郡に原籍があるもの
- その他の者
(『横須賀海軍工廠史 第4巻』1935年、pp.518-519)
「近代工場=過酷」という図式を数字で崩す
もうひとつ、通説に反する数値があります。労働時間です。
| 業種 | 拘束労働時間 | 調査年 |
|---|---|---|
| 機械制紡績業(昼夜二交替) | 11時間10分〜12時間 | 1894年(愛知県工場調査表) |
| 在来型 織物業 | 通常11時間30分〜16時間、中数12時間30分、最長16時間30分 | 1894年(同上) |
| 製糸業(諏訪) | 平均15時間を下らず、しばしば18時間 | 1901年調査(『職工事情』) |
機械制紡績(11〜12時間)の方が、在来型織物(最長16時間30分)や製糸(15〜18時間)より労働時間が短い。「近代的な大工場ほど過酷だった」という図式は、少なくとも労働時間では成り立ちません。
そして製糸業では、こんなことが起きていました。
ある地域の工場では就業規則で労働時間が定められているため、規定の時間を超えて働かせたいときには、しばしば時計の針を戻す。 そうしたとき、もし一つの工場のサイレンが正しい時刻に終業を告げれば、 他の工場で働く女工たちも自分たちのシフトが終わるべき時刻だと知ってしまう。 そこで工場主たちは暫定的に、サイレンを使わないことで合意している。
(1903年の政府報告=『職工事情』の記述。Janet Hunter, "Japanese Women at Work, 1880-1920", History Today 43(5), 1993 の英訳からの再訳)
時計の針を戻すことと、それがバレないように工場主が申し合わせてサイレンを鳴らさないこと。労働時間のカルテルです。ここまで来ると、製品と労働の両方で協定が張り巡らされていたことが分かります。
工場法は、なぜ5年半も施行されなかったか
日本初の労働者保護法である工場法は、1911年3月29日に公布され、施行は1916年9月1日でした。 5年半の空白があります。
そして「骨抜き」の中身は、条文を読むと具体的です。
| 項目 | 原則 | 例外・猶予 |
|---|---|---|
| 適用範囲 | 原動機を使用し常時15人以上の職工を使用する民営工場 | 門衛・給仕・掃除夫・寄宿舎の賄方は「職工」に含まない |
| 最低年齢 | 12歳未満の就業禁止 | 施行時にすでに就業している10歳以上の幼年者は継続使用可。軽易業務は地方長官の許可で使用可 |
| 保護対象 | 女子(年齢不問)と15歳未満 | 法案の「16歳未満」が「15歳未満」に引き下げられた |
| 就業時間 | 1日12時間が上限 | 生糸製造と輸出絹織物は施行時から5年間14時間、その後10年間13時間まで容認。織物・編物は2年間14時間 |
| 深夜業(22時〜4時) | 禁止 | 生鮮食料品製造と新聞印刷を除外。最長10日ごとの昼夜2交替制を採る工場には施行後15年間の猶予 |
| 危害防止 | 行政官庁に臨検権限 | 施行令にも施行規則にも、危害の特性に応じた具体的取締規則は定められなかった |
保護職工を最も多く使っていた生糸製造と輸出絹織物に、施行から5年間の14時間労働を認める。昼夜二交替の工場には深夜業を15年猶予する。つまりこの法律が本気で規制しようとした対象そのものが、例外規定で抜かれていました。
工場法の制定目的である「職工保護の二大眼目」(工場設備による危害防止と保護職工の健康保護)は、当時最も多数の職工を就業せしめた繊維業界の猛烈な反対により、例外規定と適用猶予規定とによってほぼ完璧に骨抜きにされた
(渡辺章「労働法の制定——工場法の意義」『日本労働研究雑誌』No.562、2007年5月 p.102)
1923年の改正で適用範囲は職工10人以上に拡大されますが、 適用工場は全体87,398カ所の27.6%から34.3%になったのみでした。
『職工事情』自身が、徹夜業についてこう書いていました。
徹夜業に於ては職工及其監督者も亦睡魔に襲はれ心身共に疲労し周密なる注意と精励なる気力を以て業に従ふこと能はざるを以て製糸の品質粗雑に流るるを免れず……徹夜業廃止は実に之が一方法たりと云はざるべからず
(『綿糸紡績職工事情』。渡辺章「労働法の制定——工場法の意義」『日本労働研究雑誌』No.562, 2007年 p.104 所引)
政府が1901年に調査し、1903年に「徹夜業は品質を落とすからやめるべきだ」と書いた。 それでも法律の成立は1911年、施行は1916年で、しかも深夜業は期限つきで容認された。この章の勝者——大阪紡績・鐘淵紡績・三重紡績といった大手紡績——が、制度そのものを書き換えたわけです。
反対の言葉も残っています。1896年の第一回農商工高等会議で、渋沢栄一はこう述べました。
〔機械を〕間断ナク使フニハ夜業ト云フ事ガ経済的ニ適ツテル…… 唯一偏ノ道理ニ依ツテ欧羅巴ノ丸写シヤウナ十年ヲ設ケラルヽ事ノコトハ、絶対的ニ反対ヲ申上ゲタイ
(渋沢栄一、第一回農商工高等会議 1896年。『商工政策史』第8巻 22頁)
鐘淵紡績社長の武藤山治は1910年の法案に対し、 「若シモ単ニ衛生上ノ議論ヨリシテ極端ニ之ニ干渉スルヲ容認スルカ、日本ノ工業ハ非常ナ打撃ヲ蒙リ」と反対しています。「職工優遇こそ最善の投資」を掲げ、1902年に工場内へ乳児保育所と女学校を設け、日本初とされる社内報を発行した経営者が、です。
同じ構図は環境問題にも現れます。足尾銅山の鉱毒は1885年に渡良瀬川のアユ大量死として顕在化し、 1891年に田中正造が帝国議会で追及し、1897年にようやく予防工事命令が出て、 1901年に田中が明治天皇に直訴し、1906年に谷中村が廃村になりました。被害の顕在化から行政の対応まで12年かかっています。
学説は一致している——明治期に日本的雇用はない
第1章では江戸期起源説を勤続年数の数値で退け、第2章では明治期の学卒採用を「日本的経営の起源」とは読めないことを確認しました。 第3章の労働データも、同じ結論に着地します。そしてこの点については、学説がほぼ一致しています。
二十世紀初頭には日本型人事管理モデルの構成要素はどれ一つとして成立していなかった。日本型は近世の伝統に由来するのではなく、近代化の過程で編み出された新しい方法である。
(森口千晶「日本型人事管理モデルと高度成長」『日本労働研究雑誌』No.634、2013年5月)
森口が挙げる産業化初期の大工場の姿は、この章で見てきたものとぴたり重なります。
- 外部労働市場から経験工を随時採用し、企業による教育訓練はない
- 職長が個々に仕事を配分し、賃金は一般的技能または出来高に基づく
- 頻繁な自発的離職と解雇で雇用期間は短い。平均勤続年数は1年に満たない
- 未経験工より即戦力の熟練工を優先採用し、中途採用者が待遇上の不利益を受けることはなかった=技能に企業特殊的な要素が極めて小さかった
- ホワイトカラーとブルーカラーの間に、身分制度というべき待遇格差
では、いつ成立したのか。ここは説が分かれます。
| 説 | 時期 | 論者・根拠 |
|---|---|---|
| 1920年代説 | 1920年代 | 尾高煌之助: 一部の大企業で1920〜30年代に職工の実収賃金と勤続年数の間に明確な正の相関が現れる/中林真幸: 1928年の大阪市出稼調査で同一職種内の職歴形成を確認/菅山真次: 20世紀初頭に民営大工場が高等教育機関の新卒採用を開始 |
| 戦時期説 | 1937〜45 | 第5章の主題(1940年体制論) |
| 高度成長期説 | 1955〜73 | 遠藤公嗣(第2章で紹介) |
どの説を採っても「明治期には成立していない」点では完全に一致しています。技能形成型の養成工制度(三菱造船・日立製作所・芝浦製作所など)が現れるのは1910年代、 定期昇給・期末賞与・退職手当が工員層に広がるのは第一次大戦期以降で、 しかも1920年代の不況期には一方的に改廃されました。
断定を避けるべき論点
この章で扱った事柄のうち、学界が割れているものを明示しておきます。
| 論点 | A説 | B説 | 状況 |
|---|---|---|---|
| 「財閥」とは何か | 森川英正: 「富豪の家族ないし同族の封鎖的所有・支配の下に成り立つ多角的事業経営体」(1980)。規模=寡占的地位を要件としない | 安岡重明: 持株会社を中核とし、大規模な子会社がそれぞれの産業部門で寡占的地位を占めることを要件に含める(1976) | 未決着。定義次第で「鈴木商店・古河・浅野は財閥か」の答えが変わる。下谷政弘は「財閥」がもともとジャーナリズム用語であることから概念自体を相対化する |
| 官業払下げが財閥を作ったか | Morck & Nakamura: 明治政府の big push が財政危機で失敗し、官営企業の大量払下げを経て財閥が調整役を引き継いだ(2007) | 佐藤秀昭(2024): 4大財閥のうち官業払下げで多角化したのは2社のみ。住友は自ら鉱脈を発見しており政府から買っていない。安田は自己資本で銀行業に進出した | この概念は「4大財閥の半分しか説明しない」と佐藤は論じる。本章も三井・三菱と住友・安田を区別して書いた |
| 財閥は推進役か寄生か | 柴垣和夫(1965)ら: 財閥を金融資本の「積極的タイプ」と規定し、多角的に投下された現実資本を単一の支配資本に集約する唯一の機構と評価 | 橋本寿朗(1992): 従来の財閥研究は「財閥と日本資本主義を等置しているか、前者で後者を代表しているか」であり、「三井財閥といえども一般集中度でたかだか10%ほど」にすぎない | 同じ事実を、資本主義の発展段階論で読むか、企業行動の主体的契機で読むかの対立。未決着 |
| 内部資本市場は効率的だったか | 岡崎哲二(1999): 効率性アプローチ。持株会社解禁の議論を背景に、そのメリットを説く | 武田晴人(2020): 効率性ではなく性格の違いを論じる。内部資本市場は「外部の金融・資本市場から切り離された無縁の取引空間」ではありえない | 同じ「内部での利益移転」を、調整機能と読むか収奪(tunneling)と読むかでも国際的に割れている |
| 産業革命はいつ終わったか | 早期説: 1897年に綿糸輸出量が輸入量を上回ったことをもって完了。綿業中軸説(高村直助は1880年代半ば〜1890年代末) | 通説: 1907年頃(石井寛治・大石嘉一郎)。さらに古島敏雄は在来産業を含めて1919年まで、杉山伸也は第一次大戦期を終期とする | 4説以上が並立し未決着。杉山は「研究者の多様な歴史観の差を反映した恣意性をまぬがれない」と述べる。石井自身も著作によって終期を変えている |
| 八幡製鉄所は失敗だったのか | 通説: 1901年の開始式で炉温が下がる失態。『報知新聞』は26回にわたり「失敗せる製鉄所」を連載し、和田維四郎長官は3か月足らずで休職 | 長島修(2005): 外国人観察者は「製鐵所で利用されている機械は殆ど総てが最も現代的なタイプ」と高く評価していた。日本国内の否定的評価は政治的バイアスの産物ではないか | 「失敗」という評価自体を問い直す議論がある。長島は「そうした評価が人為的に作られたとすると、実態についても謙虚に検討しなおす必要が出てくる」とする |
| 軽工業から重工業へ、という発展段階 | 通説: 1890年代に軽工業、1900年代に重工業という2段構成 | 杉山伸也(2015): 1915年でも近代移植産業(綿紡・機械・鉄鋼)は製造業の2.0%にすぎない。この期の成長は「醸造業や織物業に代表される在来部門の動向に依存していた」 | 単線的な発展図式は数量的に相対化される。谷本雅之の「在来的発展」論も、小規模経営のまま成長した産業を重視する |
現代への接続
この章で作られたもののうち、何が今も残っているかを整理します。
| この章で生まれたもの | 現代における姿 | 連続性の性質 |
|---|---|---|
| 持株会社(三井合名1909、三菱合資1893、住友合資1921) | 純粋持株会社。1997年の独占禁止法改正で解禁され、金融持株会社・事業持株会社が普及 | 断絶を挟む連続。1945年の財閥解体で持株会社は禁止され、半世紀後に別の文脈で再導入された |
| 直系100%・傍系部分出資という二層構造 | 連結子会社と持分法適用会社の区別 | 会計基準としては別物だが、支配の程度で階層を作る発想は連続 |
| 三菱の事業部→株式会社化(1917〜21) | 事業会社の分社化、ホールディングス化 | 組織原理として連続 |
| 大阪紡績+三重紡績=東洋紡績(1914) | 東洋紡株式会社 | 直接連続。紡績会社数は1899年78社→1911年32社という集約の到達点 |
| 小林一三の沿線開発モデル(1910) | 私鉄各社の不動産・流通・レジャー事業 | 直接連続。日本の私鉄が世界的に見て特異な多角化企業である理由がここにある |
| 日立鉱山の修理部門から生まれた日立製作所(1910) | 株式会社日立製作所 | 直接連続。日本の重電が「鉱山という需要家の内部」から立ち上がった型 |
| 工場法(1911公布・1916施行) | 労働基準法(1947) | 断絶を挟む。適用範囲・実効性ともに戦後の労働三法で作り直された |
| 寄宿制と募集人による労働力調達 | —— | 断絶。ただし「遠隔地から人を集めると定着しない」という構造は、現代の技能実習・地方採用にも通じる |
レイヤーごとの答えです。
- ① 資本と所有:持株会社という装置が発明された。ただし目的は外部資金の動員ではなかった。本社は無限責任の合名で同族支配を100%守り、事業だけを有限責任の株式会社にする非対称構造。武田晴人によれば動機は危険分散と節税で、江戸期の総有制を近代法の器に移し替えたものと読める
- ② 組織と統治:技術者を留学させて作る型が確立し、専門経営者が製造現場の管理技術まで担うようになった。山辺丈夫・斎藤恒三・菊池恭三、そして原価計算を長崎造船所に導入した荘田平五郎。ただし人材は絶対的に不足しており、菊池は3社の技術責任者を兼務していた
- ③ 雇用と人事:制度化はまだ来ていない。むしろ流動性が調達方式によって生産されていた。全員通勤の工場は1年以上勤続92.6%、寄宿女工は1年未満67.3%。年功手当は月35銭で罰金1回分と同額であり、これは技能への報酬ではなく引き留め手当だった。技能認定・職業紹介・失業給付を担っていたのは企業ではなく友子同盟という同職集団であり、森口千晶の言うとおり「二十世紀初頭には日本型人事管理モデルの構成要素はどれ一つとして成立していなかった」
次章では、この構造が3〜5年おきに来る危機の連鎖にさらされます。 1920年の戦後恐慌で焦げついた債権が1923年の関東大震災で「震災手形」として繰り延べられ、 1927年の金融恐慌(鈴木商店の破綻と台湾銀行)を招き、そして昭和恐慌へ。 一方で鮎川義介の日産、野口遵の日窒といった新興財閥が、 既存財閥とはまったく違う資金調達——公開株——で満州・化学・重電に打って出ます。 そして、この章で見た「株主有限責任」の中身が、恐慌下で正体を現します—— 戦前の株主は、まだ払っていない株金を請求される立場にありました。
理解度チェック
財閥が「本社=合名・合資/事業会社=株式会社」という二層構造を採った主な動機として、武田晴人の研究が示しているのはどれですか?
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