前章の到達点と、この章の問い

第1章で見た江戸期の商家には、法人格も有限責任も持分の外部譲渡もありませんでした。 事業体の単位は「家(イエ)」で、成長の原資は内部留保と信用に限られます。 三井大元方は宝永7年(1710年)から記録が始まる資本の集約・再配分装置で、 発足時に銀8864貫あまり(金にして約15万両弱)を掌握していました。 しかしそれは内部で回すための仕組みであって、外から資本を入れる装置ではありません。

この章の問いは単純です。その世界に、「会社」はどうやって入ってきたのか。そして——入ってきたものは、本当に私たちが知っている株式会社だったのか。

結論を先に言えば、答えは「かなり違うものが、かなり長い時間をかけて入ってきた」です。 日本の会社は有限責任なしで21年間運転され、 資本の原資は士族の身分を証券に変えたものでした。 そして「日本資本主義の父」の代名詞である「合本主義」という語は、 本人がほとんど使っていません

明治期の年表 — 制度が積み上がる30年

横浜開港

全国輸出額 約1百万ドル、うち横浜が44.9%。翌1860年に生糸輸出が始まると全国輸出額は約5百万ドルへ急増し、横浜シェアは88.3%になる。単一輸出品への特化構造が1年で成立した(横浜税関統計)。

福澤諭吉『西洋事情』初編

「大商売を為すに、一商人の力に及ばざれば、五人或は十人仲間を結て其事を共にす。之を〈商人会社〉と名つく。〈アクシヨン〉と云へる手形を売て金を集む」。ただし石井研堂は「実は社債なるべし」と注記しており、株式と社債が未分化だった。

通商会社・為替会社の設立/静岡藩商法会所

政府が上から作った「会社」。株式も有限責任も法人格も欠く半官半民組織で、1872年に横浜為替会社を除きすべて解散する。同年1月、渋沢栄一(29歳)が静岡で商法会所を開き頭取となるが、8月に常平倉設立に伴い廃止された。

廃藩置県/新貨条例/『会社弁』『立会略則』刊行

藩札残高およそ4,000万両が政府債務になる。両→円・銭・厘の十進法で資本を数える共通単位が成立。6月18日、太政官が『会社弁』(福地源一郎訳述)と『立会略則』(渋沢栄一編述)の府県頒布を裁可し、9月に大蔵省官版として刊行された。

国立銀行条例(太政官布告第349号)

米National Bank Act(1864)の移植。第18条第12節に株主有限責任を明記。ただし正貨(金貨)兌換義務が足枷となり、設立は第一・第二・第四・第五の4行で頭打ちになる。

第一国立銀行 開業

資本金244万800円(計画250万円、三井組100万円・小野組100万円)。渋沢は総監役。三井組・小野組それぞれから頭取を選び、その上に総監役を置く二重構造だった。渋沢は同年5月14日に大蔵省を辞している。

小野組破綻

10月22日の抵当増額令(官金預り高に対する抵当を預り金相当額へ引上げ、期限12月15日)に対応できず閉店。12月には島田組も閉店。三井組はオリエンタル・バンクから合計100万ドルの融資を受けて凌いだ。第一国立銀行は資本減少で処理する。

改正国立銀行条例/金禄公債証書発行条例

正貨兌換を廃止し、資本金の8割まで金禄公債等で払込可、発行枠を資本金の6割→8割へ。同月、金禄公債証書発行条例(太政官布告108号)が総額1億7,390万8,900円を約34万人へ交付。同年7月、私立三井銀行が開業。

株式取引所条例/東京株式取引所

発起人11名に渋沢栄一・益田孝・福地源一郎ら。ただし開業時の上場は旧公債(無利子)・新公債(4%)・秩禄公債(8%)の3種のみで上場企業はゼロ。9月に第一国立銀行株が上場して、ようやく株式市場になる。同年7月の府県官職制で会社の認可権が府県に降りた。

第百五十三国立銀行の設立で打止め

政府が総資本金4,000万円・銀行紙幣総額3,442万円を上限と設定し、ほぼ到達したため以降の設立を禁止。153行のうち71行は資本金10万円未満だった。

工場払下概則の施行と廃止

1880年11月施行の全4条は条件が厳しく払下げがほとんど進まなかった。1884年10月に廃止され、無利息・長期年賦へ緩和されて初めて動き出す。「安く売った」の前に「厳しすぎて売れなかった4年間」がある。

日本銀行開業/大阪紡績設立

6月27日 日本銀行条例、10月10日開業(資本金1,000万円、政府半額出資)。同年5月、大阪紡績会社が資本金25万円で設立され、翌年から1万500錘・労働者300人弱・昼夜二交代のフル操業に入る。

松方デフレ

全国会社数は1881年1,803社→1882年3,336社と1年で1.85倍に膨らんだ後、1884年に1,298社へ約61%減。紙幣流通量は1880年1月の1億7,000万円から1884年5月の1億2,500万円へ。1885年5月の日本銀行兌換銀券発行で銀兌換が確立する。

第1次企業勃興

貨幣価値が安定し金利が低下すると、鉄道を最大手に紡績・鉱山で設立ラッシュ。1885〜89年に会社数は約3倍、払込資本金は約3.6倍になった(統計の母集団により倍率に幅がある)。1889年夏から明治23年恐慌へ。

旧商法公布(ロエスレル起草)

「商ノ通則」「海商」「破産」の3編。翌1891年1月施行の予定だったが、第1回帝国議会が12月に施行延期を可決。商法典論争は「法典論争の関ヶ原」と呼ばれ、商法の延期が民法の延期に先行した。

旧商法の会社・手形・小切手・破産編が先行施行

この日、一般の会社にはじめて株主有限責任が及んだ。東西の商工会議所が「日本に規定のない会社法・破産法だけは暫定施行すべき」で合意したことが突破口。同年、三井は同族会と元方を設置し、三菱は三菱合資会社(出資者は岩崎弥之助・久弥の2名)へ改組、12月15日に日本郵船が株式会社になる。

新商法施行(6月16日)と治外法権撤廃

会社設立が許可制から準則主義へ。要件を満たせば当然に会社になる。同じ年に改正条約が実施され、治外法権が撤廃され外国人居留地が廃止された。法典整備を急いだ理由がここで閉じる。

三井家憲 施行(7月1日、全109条)

井上馨が「三井家憲施行法」により終身顧問に就任。政党加入・債務保証の禁止、財産の三分(営業資産・共同財産・家産)を定めた。江戸の家訓が、近代法の体裁をまとった成文法典として書き直される。

「会社」という訳語が固まるまで

最初は役所であり、仲間であり、連盟だった

制度の輸入は、まず言葉の輸入から始まります。そしてその言葉は、驚くほど揺れていました。 石井研堂『明治事物起原』(1908年)が集めた用例を並べると、こうなります。

時期「会社」が指したもの具体例
嘉永頃(1850年前後)役所/連盟『万国輿地図説補』は「勧農会社」に「ヤクシヨ(役所)」のふり仮名を振る。ドイツ連邦を「此会社之をドイツフルボンドと名つく」と表記
慶応4年(1868)なかま『東西新聞』第1号は「会社」の二字にことごとく「なかま」のふり仮名。『内外新報』は発行所を「海軍会社」と称した
明治2年(1869)社中/会社/商社が混在『開智』は「富商等〈社中〉を結び」「商人の〈会社〉にて取建」と並記。公議所『議案』や『訴答文例』では「商社」が今日の会社の意
明治4年(1871)「商工会同結社せし者の通称」『会社弁』小引の定義。company / corporation の訳語として既に定着していた
明治26/32年(1893/99)営利社団法人旧商法会社編の施行、新商法の準則主義

石井は明治2年の混乱ぶりを「実にまちまちなり」と評し、 「商社」について「その方が、むしろ適当の名なりしが、いつか会社になりてしまへり」と書いています。

『会社弁』が定義した「会社」は、法人ではない

明治4年(1871年)、大蔵省が2冊の官版を出します。福地源一郎訳述『会社弁』と、渋沢栄一編述『立会略則』です。 太政官の裁可は6月18日、刊行は9月。この2冊が、日本政府が公式に「会社」を定義した最初の文書になります。

『会社弁』小引の定義は、こうです。

会社とは、総て百般の商工会同結社せし者の通称にて、常例英語〈コンペニー〉〈コルポレーシヨン〉の適訳に用ひ来り、 特に銀行に限るの義に非ずといへども、今此書暫く〈バンク〉の訳字として銀行の字に代用す

(福地源一郎訳述『会社弁』大蔵省、1871年。石井研堂『明治事物起原』所引)

ここから3つのことが読み取れます。

  • 渋沢や福地が「会社」という訳語を発明したのではない。「適訳に用ひ来り」——すでに定着していた語を、政府が追認している
  • 定義は「集まって結社した人々の通称」。法人格でも有限責任でもない。人の集合として理解されている
  • そして本書では、その「会社」を bank の訳語として代用すると宣言している

「非常免許」— 会社とは、政府から特許を賜るものだった

『会社弁』の「諸会社取建の手続大要」は、会社設立の手続きをこう説明します。

凡そ会社は諸人相集りて会を結ひ取建る事通例の事なり。依て政府より此会社へは〈非常免許〉を賜ひ之を条例に掲ぐべし。 ……此非常免許を乞ひ其業体は〈政府の制限〉に随ふべし

(『会社弁』国立国会図書館デジタルコレクション pid=800281 のくずし字を読み取ったもの。字句は要検証)

資本は「財本」と呼ばれています。そして会社は、政府から「非常免許」(=特許・チャーター)を賜り、業務内容が政府の制限に服する存在でした。 準則主義でも自由設立でもありません。

この設計が変わるのは1899年6月16日の新商法施行です。会社設立が許可制から準則主義になり、 「要件を満たせば当然に会社になる」に転換しました。1871年から1899年まで28年間、日本の会社は「免許されるもの」だった—— この一貫性と、その終わり方が、この章の骨格です。

レイヤー① 資本と所有 — 身分を証券に変え、証券を資本に変える

金禄公債 — 士族の身分が有価証券になった

外部資本市場がない国で、産業資本をどう作るか。明治政府が採った方法は、身分(禄)を強制的に金融資産(公債)へ転換することでした。

廃藩置県の直後、家禄と賞典禄は新政府歳出の37%を占めていました。 これを一括処理したのが明治9年(1876年)8月5日の金禄公債証書発行条例(太政官布告108号)です。

項目内容
総額1億7,390万8,900円(諸資料で約1億7,384万〜1億7,400万円の幅がある)
交付人員約34万人(31.3〜31.4万人とする資料もあり、一人当たり平均を出すときは要注意)
規模感明治10年度の国家予算は5,100万円。金禄公債総額はその約3.4年分
算出式(家禄+賞典禄×2.5/10)× 石代相場 × 下賜年数。下賜年数は金禄本高に応じ5〜14年分の30等級
利率額面1,000円以上=5分/100円以上=6分/10円以上=7分/薩摩藩士族対象の売買可能金禄=1割
償還5年据置後、毎年抽選。1906年(明治39年)に予定通り完了

注目すべきは利率が逆進的だという点です。高禄者ほど利率が低く、下賜年数も短い。 一見すると下級士族に手厚い設計に見えます。ところが元本規模の差が圧倒的なので、 階層差はそのまま温存されました。

旧広島藩主・浅野家の計算例が残っています。(25,837石 + 15,000石×2.5/10) × 4.29535 × 5 = 635,432円60銭(石川健次郎1972)。 一方、下級士族が受け取った7分利公債の利子の日割額は、当時の東京の労働者最低賃金の約3分の1でした。

改正国立銀行条例 — 30年後の金を、今日の資本に変える装置

金禄公債は、そのままでは30年かけて償還される非流動資産にすぎません。 これを産業資本に変えたのが、同じ1876年8月の改正国立銀行条例でした。設計は5点です。

項目1872年(明治5)条例1876年(明治9)改正
銀行券の兌換金貨(正貨)兌換の義務あり金貨兌換を廃止し、政府紙幣兌換へ(=事実上の不換紙幣化)
最低資本金設立地域の人口に応じて規定(20万円)10万円へ引下げ(17条)
資本金の払込手段(正貨・金札引換公債)資本金の8割まで金禄公債等で払込可(19条)
発行限度額資本金の6割資本金の8割
準備金資本金の4割(正貨)資本金の2割
抵当公債の範囲金札引換公債証書+新公債証書+金禄公債証書

決定的なのは18条です。公債を政府に供託すると、同額の銀行券が下付される。 つまりこういう流れになります。

graph LR
  A["士族・華族の禄<br/>(身分に紐づく所得)"]
  B["金禄公債証書<br/>総額 1億7,390万8,900円<br/>約34万人へ交付<br/>5年据置・30年で償還"]
  C["国立銀行の払込資本<br/>資本金の8割まで公債で可<br/>改正条例19条"]
  D["政府へ供託"]
  E["銀行券の下付<br/>同額・改正条例18条"]
  F["貸出=産業資金"]

  A -->|"1876年 秩禄処分"| B
  B --> C
  C --> D
  D --> E
  E --> F

  style B fill:#c4a44a,stroke:#a07d2e,color:#fff
  style E fill:#2563eb,stroke:#1d4ed8,color:#fff
  style A fill:#1e1a2e,stroke:#3c365a,color:#ededed
  style F fill:#8b5cf6,stroke:#7c3aed,color:#fff
金禄公債から産業資金への転換経路。30年かけて償還されるはずの公債が、政府への供託を経て同額の銀行券に変換され、即座に貸し出せる資金になる。加藤俊彦はこれを「財政措置が疑似資本を創出した」と評した。

向こう30年間における現金受け取りを確約する交付国債である金禄公債が国立銀行の資本金となった結果、 銀行券発行にかかわる公債供託規定を拠り所にして金禄公債が現時点での現金へと転化された

(鹿野嘉昭、2022年)

4行から153行へ

改正の効果は劇的でした。1876年8月まで国立銀行はわずか4行——第一(東京・244万800円)、 第二(横浜・25万円)、第四(新潟・20万円)、第五(大阪・50万円)だけです。 それが1879年11月の第百五十三国立銀行までで153行になります。

国立銀行153行の資本金規模別分布(設立許可当時の資本金額。出典: 『明治財政史』第13巻、南地伸昭2005 図表3)

153行のうち71行、実に46%が資本金10万円未満です。 日本銀行調査局はこの状況を、比較的小規模な国立銀行が「各地に割拠し互に群雄対峙の状」をなすが如くであった、と表現しました。 これは偶然ではなく設計です。伊藤博文が米国型の小銀行主義を採り、 英国流の中央銀行型(大銀行主義)を主張した吉田清成を退けた結果でした。井上馨の裁定はこうです。

米国に適例のあることなら日本の銀行は寧ろ各地方に小さく創立せるが適当であらう

(阪谷芳郎編『青淵先生六十年史』第一巻481頁、1900年)

株式市場は公債から始まり、有限責任は21年間なかった

1878年5月4日の株式取引所条例で東京株式取引所が生まれます。発起人11名には渋沢栄一・益田孝・福地源一郎・三井武之助らが並びました。 ところが開業時の上場銘柄は旧公債(無利子)・新公債(年4%)・秩禄公債(年8%)の3種だけで、上場企業はゼロです。 最初に上場した「株式」は東京株式取引所自身の株でした。 会社の株が上場するのは同年9月、第一国立銀行株からです。

そしてもっと重大な事実があります。

では、その空白を何が埋めていたのか。答えは府県です。 1878年7月の府県官職制で会社の認可権が地方官庁に降り、1880年3月の東京府布達甲第21号が会社を「認可会社」と「届出会社」に二分し、 1886年の大阪府「合資結社営業取締規則」は会社名の末尾に「Limited」を付けて有限責任会社であることを表示する義務を第6条で定めました。

そして東京府は、それを実際に運用していました。北浦貴士が東京都公文書館の一次史料から拾った数値です。

対象発起人身元調定款訂正指示
認可会社(73社)38社(52%)17社(23%)
届出会社(80社)0社12社(15%)
定款改正願を出した認可会社(71社)6社(9%)

身元調の調査項目は「平素品行ノ良否」「業体」「所有不動産ノ概価格」「身代見積ノ高」「現在負債ノ為メ被告トナリシヤ否」の5項目。 「有限責任日本雑貨貿易商会」は発起人1人の身代見積高55,000円が資本金100,000円の4分の1を単独で負担できるとして認可され、 逆に「東洋石油改良会社」は発起人の保有不動産が3,000円しかないとして設立を一度却下されています。

つまり日本の会社法は、府県から国へ逆流して成立しました。 法が民間に先んじたのでも、民間が完全に自由だったのでもありません。

官営払下げ — 「安売り」論を両論で読む

資本の初期集中を語るとき必ず出てくるのが官営事業の払下げです。ここは学説が正面から割れているので、 片方だけを書くと誤ります。

論点A説(小林正彬 1971/1977)B説(山本弘文 1978 ほか)
主張払下げは合理的な政策だった。「官業払下げを成功させたのは『政府』ではなく『企業』であった」「過渡的で政商的な払下げ」。払受人の近代性を過大評価している
方法工部省の部局別収支など一次数値を発掘し、日本資本主義論争以来の「政府が上から育成した」図式を批判政策史(第1部)は論理が非整合で、事例研究(第2部)は高く評価、と評価が割れる
自説の限界小林自身が三池について「算出根拠も400万円という数字に合わせてある感があり『政治価格』の色彩が強い」と認めている「1870〜80年代は帝国主義時代への移行期であり、工業化政策が軍事を意識しなかったなどと考えられるか」

この論争を面白くする一次データが、小林が掘り出した工部省の部局別収支です(1870年10月〜1885年12月合計)。

工部省 各部局の損益(1870年10月〜1885年12月合計、万円。全22部局中の主要10部局。出典: 「工部省沿革報告」『明治前期財政経済史料集成』第17巻、小林正彬1971 第2表より作成)

黒字の大半は鉄道と電信と鉱山であり、造船所と硝子製造所は限りなくゼロか赤字です。 「模範工場」として喧伝された部門ほど儲かっていない。ここから小林は「払下げは経営不振の官業を民間が引き取って立て直した」と論じ、 山本は「不振だから安く売って良いことにはならない」と反論した——という構図になります。

レイヤー② 組織と統治 — 家訓が家憲になり、番頭が常務理事になる

三井 — 大元方は、法人格を持たないまま生き延びた

第1章の大元方が、どうなったかを追います。

  1. 1893年7月: 商法(会社編)の施行に合わせ、銀行・物産・鉱山を同族当主を出資社員とする合名会社に改組
  2. 1893年11月: 三井家同族会を設立し、三井組を改称して三井「元方」を設置(大元方に代わる本部統轄機関)
  3. 1900年7月1日: 三井家憲施行(全109条)。井上馨が終身顧問に
  4. 1909年: 三井物産株式会社・株式会社三井銀行・東神倉庫株式会社を設立し、三井鉱山合名会社が商号を三井合名会社へ変更(資本金5,000万円、出資社員は三井11家当主のみ)

三井広報委員会は三井合名を「かつての大元方を近代の事情に合わせて持株会社に改組したもの」と明言しています。 では、なぜ200年近く機能してきた大元方を改組する必要があったのか。動機は法人格でした。

益田孝が1906年に提出した「営業組織に対する意見書」の核心は、 三井元方が法人格を持たず、無限責任の合名会社では三井家の資産そのものが危険にさらされる、という指摘です。 解は「頂点は無限責任の合名会社(同族のみ)、傘下事業は株式会社(その株式を合名が保有)」というコンツェルン構造でした。

graph TD
  K["三井家同族会<br/>1893年設置<br/>家政を統轄"]
  G["三井合名会社<br/>1909年・資本金5000万円<br/>出資社員は11家当主のみ<br/>無限責任"]
  B["株式会社三井銀行"]
  T["三井物産株式会社"]
  S["東神倉庫株式会社"]
  M["三井鉱山"]

  K -->|"同族が出資社員"| G
  G -->|"株式を保有"| B
  G -->|"株式を保有"| T
  G -->|"株式を保有"| S
  G -->|"株式を保有"| M

  style G fill:#2563eb,stroke:#1d4ed8,color:#fff
  style K fill:#8b5cf6,stroke:#7c3aed,color:#fff
  style B fill:#1e1a2e,stroke:#3c365a,color:#ededed
  style T fill:#1e1a2e,stroke:#3c365a,color:#ededed
  style S fill:#1e1a2e,stroke:#3c365a,color:#ededed
  style M fill:#1e1a2e,stroke:#3c365a,color:#ededed
1909年に完成した三井の二層構造。家政は三井家同族会、事業は三井合名会社が統轄する。頂点は無限責任の合名会社で同族の支配権を100%保持し、傘下事業は有限責任の株式会社にしてリスクを遮断する。江戸期の大元方が持っていた「資本の集約と再配分」機能に、法人格と有限責任が接続された形。

三菱 — 「社長ノ特裁」を、成文の第1条に書いた

三井が同族の合議を制度化したのに対し、三菱は専制を明文化しました。 1875年5月1日制定の『三菱汽船会社規則』(三菱史料館所蔵 MA-10230-1)の第一条・第二条です。

當會社ハ姑ク會社ノ名ヲ命シ會社ノ体ヲ成スト雖モ、其実全ク一家ノ事業ニシテ、他ノ資金ヲ募集シ結社スル者ト大ニ異ナリ。 故ニ會社ニ関スル一切ノ事及ヒ褒貶黜陟等、都テ社長ノ特裁ヲ仰クヘシ(第一条)

故ニ會社之利益ハ全ク社長ノ一身ニ帰シ、會社之損失モ亦社長ノ一身ニ帰スベシ(第二条)

「会社の名を命じ会社の体を成すといえども、その実まったく一家の事業である」——会社という形式を採っていることを認めた上で、それが形式にすぎないと宣言しているのが凄まじいところです。 同時代人はこれを「独裁政治」と呼びました。

ところが同じ三菱は、規則・簿記・勤務規程の整備が日本で最も早い企業でもあります。 1876年には「一六休暇の旧慣を廃止し以後毎日曜日を休日とする」「社員の勤務時間を午前8時より午後4時までとする」と定め、 1877年には全31カ条の『郵便汽船三菱会社簿記法』で複式簿記を導入しました。 設計したのは慶應義塾の教員から移った荘田平五郎です。専制と官僚制的整備は、矛盾せず同時に進みました。

1893年、商法施行に伴い三菱は三菱合資会社へ改組します。 出資者は岩崎弥之助・岩崎久弥の2名のみ。所有の閉鎖性を極限まで保ったまま、 内部は総務・銀行・営業・炭坑・鉱山・地所の各部制で分権化し、1908年には独立採算の事業部制に至りました。所有は集中、執行は分権——これが「組織の三菱」の原型です。

住友 — 家長は「君臨すれども統治せず」

三家のなかで所有と経営の分離が最も明確だったのが住友です。 1877年に広瀬宰平が初代総理人となって以降、実務の全権は非同族の総理人/総理事に委任され、広瀬(叩き上げ)→伊庭貞剛(司法官出身)→鈴木馬左也(東京帝大卒・内務省官僚)と、 非同族の専門経営者が連続して頂点に立ちました。

1891年に「住友家憲」(14ヵ条)と「住友家法」に分離された際、家法の冒頭に置かれた「営業要旨」がこれです。

第一条 我営業ハ信用ヲ重ジ、確実ヲ旨トシ、以テ一家ノ鞏固隆盛ヲ期ス

第二条 我営業ハ時勢ノ変遷、理財ノ得失ヲ計リ、弛張興廃スルコトアルベシト雖モ、苟モ浮利ニ趨リ、軽進スベカラズ

(住友グループ広報委員会「住友家法」)

さらに住友が特異なのは、トップの引退規範を思想として持ち込んだことです。 第2代総理事の伊庭貞剛は「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくして、老人の跋扈である」と書き、 自ら58歳で退きました。初代の広瀬が独断的経営への内部批判を受けて17年で退任した経験の、直接の反省でもあります。

三井三菱住友
頂点の意思決定同族会+顧問(井上馨が終身顧問)社長専制を規則第1条で明文化家長は「君臨すれども統治せず」
1890年代の法形態銀行・物産・鉱山を合名会社(1893)三菱合資会社(1893、出資者2名)住友本店(合資化は1921年)
実務のトップ中上川彦次郎(1891〜1901)/益田孝荘田平五郎(支配人)/豊川良平(管事)総理人・総理事(広瀬→伊庭→鈴木)
人材の供給源慶應義塾を中心に学卒を大量採用慶應義塾ライン(豊川良平が推挙)帝国大学・官僚出身(鈴木馬左也)
成文規範三井家憲(1900、全109条)三菱汽船会社規則(1875)住友家法(1882)→家憲・家法(1891)

株主総会は形骸化していなかった

「戦前の日本企業は株主が強かった」と言われますが、それが具体的にどういう光景だったのか。 東洋紡績社史室に残る『大阪紡績会社株主総会議事録』の原本から、青地正史が復元した実際のやりとりです。 1905年(明治38年)、社員の横領事件のあとの第43回定時株主総会。

株主4「後期繰越ノ六千円ヲ削ッテ配当シテ貰イタイ。ソウスルト九朱即チ普通株ガ二円二五銭ニナル勘定デアリマス」

株主5「一人ノ不正直ノ者ガアリタ為ニ……我々株主ハ六千円ノ繰越シマデ分ケテ取ロウト云ウノハ、余リ薄情ナヤリ方ト思イマス」

株主4「京都ノ大株主ガ会合シテ其意見ヲ集メテ代表シテ参ッタノデアリマスカラ、ドウモ一己ノ考デ之ヲ取消ス訳ニハマイリマセヌ」

山辺丈夫(経営者)「コノ次ノ期ニ於テハ重役一同モ層一層勉強致シテ、六千円ハ余計ニ儲ケル様ニ心掛ケマスルデ、今回ノ所ハ京都ノ御説ニ反対ノ御方ハ忍ンデ御譲歩ヲ願イタイ」

横領で会社が損害を出した直後に、株主が「その分まで配当に回せ」と迫り、 京都の大株主グループが事前に意見を集約して代表を送り込んでいる。 そして経営者は頭を下げて譲歩を乞うしかない。

なぜこうなるのか。青地の分析はこうです。当時の紡績会社は自己資本比率が非常に高い直接金融で、 株主が資金の主たる提供者でした。しかも「物言う株主」の正体は、 金銀箔商・売薬製造業・中津紡績取締役・内外綿取締役といった自らも事業を営む経営者です。 素人の個人投資家ではありません。

もうひとつの規律は銀行でした。大阪紡績は第一銀行から役員の受入れを余儀なくされ、 福島紡績は日本勧業銀行から「機械代償却金および損失填補金として毎期原価の1000分の15」を積み立てることを借入条件に飲まされています。 青地はこれを、株主と銀行の「双対的コントロール」と呼びました。 この構図が崩れて株主総会が形骸化するのは1920年代です——第4章の主題になります。

レイヤー③ 雇用と人事 — 番頭が消え、学卒が来た

中上川彦次郎の改革が入れ替えたもの

第1章で見たとおり、江戸期の商家の人材供給は10歳前後で入店した丁稚の内部昇進でした。 これが崩れる決定的な場面が、1891年から1901年にかけての三井銀行です。

福澤諭吉の甥である中上川彦次郎が入行した1891年7月、京都分店で取付騒ぎが起き、回収確実な債権は3割しかありませんでした。 中上川は東本願寺から100万円を回収し(社殿の抵当登記を迫って「信長以来の仏敵」と呼ばれます)、 伊藤博文の借入申込を却下し、井上馨の反対を押し切って桂太郎邸を差し押さえます。 預金残高の43%(1880年上期末)を占めていた官金の取扱いもすべて返上しました。持論は「預金即ち借金なり」

そして人事です。中上川は旧三井組時代からの番頭層を入れ替え、慶應義塾出身者を大量に採用しました

人物出身その後
武藤山治慶應義塾(1884)・米国留学鐘淵紡績 工場支配人(1894)→専務→社長。「紡績王」
藤原銀次郎慶應義塾王子製紙 社長。「製紙王」
小林一三慶應義塾三井銀行 → 阪急電鉄 社長
池田成彬慶應義塾・ハーバード大学三井銀行 常務(1911)→筆頭常務(1919)→日銀総裁・蔵相
日比翁助慶應義塾三越呉服店 専務。三井呉服店を日本初の百貨店へ
藤山雷太慶應義塾芝浦製作所 支配人 → 大日本精糖 社長
波多野承五郎・村上定・平賀敏・鈴木梅四郎いずれも慶應義塾三井銀行理事/共同火災保険社長/桜セメント社長/王子製紙専務

三菱でも同じことが起きています。豊川良平(岩崎弥太郎の従兄弟)が慶應義塾から荘田平五郎を引き、 近藤廉平・山本達雄・長谷川芳之助らを推挙しました。 住友は帝国大学・内務省ルートで、1887年帝大卒の官僚だった鈴木馬左也が1904年に総理事になっています。 三井の早川千吉郎(1887年帝大法科卒、大蔵省→日銀監事)も同型です。

第1章の三井京本店では、勤続13年以上は65人中2人でした。 明治の三井銀行では、そこで昇っていくはずだった層が、外部の学校から来た人間に置き換えられます。 「非同族が実務の全権を握る」という構造は江戸から連続していますが、供給源が内部労働市場から学校へ移った——これが雇用レイヤーの明治期における最大の変化です。

それでも、日本的雇用はまだ生まれていない

ここで、この章で最も気をつけるべき誘惑について書いておきます。 「番頭から学卒へ」という転換を見ると、つい「新卒一括採用の起源はここだ」と書きたくなります。 しかし学説史はそれを支持しません。

日本的経営の成立時期には、少なくとも4つの説があります。

時期主な論者・根拠
江戸期起源説〜1868安岡重明・千本暁子「雇用制度と労務管理」(1995)。商家に内部労働市場が形成されていたとする。第1章で見たとおり、勤続年数の数値はこれを支持しない
明治末〜大正期成立説1900年代〜1920年代尾高煌之助「工場制度と労務管理」(1995)。1881年東京府統計書・1884年岩手県工場調査から「工場制度の定着は遅かった」とする
戦時期(1940年体制)説1937〜45野口悠紀雄ら。本シリーズ第5章の主題
高度成長期説1955〜73遠藤公嗣(2016)。「日本的雇用慣行の最後の形態は、『1960年代型日本システム』のもとでの日本的雇用慣行である」

興味深いのは、同じ『日本経営史』第2巻(1995年)のなかで 宮本又郎・阿部武司が「1890年代初めに株式会社制度がほぼ定着した」と検証する一方、 尾高煌之助が「工場制度の定着は遅かった」と論じていることです。会社制度は早く定着し、工場制度は遅れた——この非対称が、明治期の雇用を理解する鍵になります。

資本と組織の器は1893年から1899年にかけて法的に完成しました。 しかしその器の中で働く人をどう組織するかは、まだ誰も答えを持っていません。 第1章の答えが「雇用は連続していない」だったのに続き、第2章の答えも「雇用の制度化はまだ来ていない」です。

渋沢栄一 — 通説を一次史料で解体する

この章の主人公として登場するはずの人物について、最後にまとめて検証します。 渋沢栄一記念財団が公開しているデジタル版『渋沢栄一伝記資料』(全68巻・約48,000ページ)は全文検索が可能で、 通説の多くはここで確認できます。そして——かなりの数が崩れます。

①「500社を設立した」は財団自身が否定している

財団の公式Q&Aは、こう書いています。

渋沢栄一が関わった会社は500と言われていますが、それらの会社をすべて「作った」わけではありません。 自ら設立することもあれば、設立する人に助言したり、資金や人材を集めるのを助けたり、時には揉め事の仲裁をしたりしました。

そして内訳がこうです。

約500社の内訳(渋沢栄一記念財団 Q&A)割合
合併・国有化等を経て何らかの形で現在も事業を継続約6割
解散、または不成立約3割
設立後の経過不明(おそらく消滅)約1割

約3割は解散または「そもそも成立しなかった」。「不成立」が含まれている時点で、 この数字が「創業した会社の数」ではないことは決定的です。 英語版の表現も "involved in the founding of some 500 enterprises and economic organizations" で、企業だけでなく経済団体を含みます。

財団の「渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図」データベースで実際に名前を確認できる「栄一関連」は721件(重出含む)ですが、 このDBは実業・経済事業の約85%、社会公共事業の約15%しかカバーしていません。 つまり「500」という数字は、財団自身も確定値として提示していないのです。

②「合本主義」は、評論家がつけたラベルである

『渋沢栄一伝記資料』の全文検索(対象20,383項目)で、語彙の出現数を数えるとこうなります。

デジタル版『渋沢栄一伝記資料』全文検索の語彙頻度(全20,383項目中。出典: 渋沢栄一記念財団デジタル版『渋沢栄一伝記資料』)

渋沢が生涯にわたって使ったのは「合本組織」「合本法」「合本結社」であり、 「合本主義」というイデオロギー名詞はわずか10項目しか出てきません。しかもその多くは第三者による論評か後年の回想です。

では「合本主義 vs 個人主義」という有名な対立図式は誰が作ったのか。評論家の山路愛山です。

他なし一は則ち個人主義にして、他は則ち合本主義なり。……帰する所は衆人の資本に合し、衆と共に事を為さんとするものなり。我等は便宜の為に之を名けて合本主義と云ふ

(山路愛山「渋沢男と安田善次郎氏」『太陽』第15巻第11号、1909年8月)

「我等は便宜の為に之を名けて」——分析者側の造語ラベルであることを、山路自身が明言しています。 そして山路の結論は、現在の礼賛的な用法とは正反対でした。

四十年来の結果を見るに、合本主義は自然に敗北し個人主義却て勝利を博し、小資本家漸く衰へ大資本家益々繁昌するの傾あり。 ……事実に於ては合本主義破れて個人主義勝ちたるものなり。

我等は此点に於てたしかに男が敗軍の将たるを知るなり。

1909年時点の同時代人の評価は「渋沢は負けた」でした。 山路はさらに「渋沢男自身と雖も嘗て王子製紙会社が三井家のものとなりし跡などを見れば実に大資本の圧迫を感ぜざるを得ざらん」と書いています。 なお山路は同じ文章で「合本主義と協同一致の精神とは今日と雖も大資本家ならざるものが大資本家の専横と戦ふべき好箇の武器たるを失はず」とも述べており、 全否定しているわけではありません。

③『立会略則』は民間啓蒙書ではなく、政策文書である

渋沢が1871年に書いた『立会略則』は「日本初の株式会社解説書」として紹介されることが多い本です。 ところが本人の自序を読むと、こう書かれています。

偶々客冬官府ヨリ福地万世ニ命シテ会社弁ヲ訳セシメ刊行シテ以テ世ニ公セントスルニ当リ…… 名テ立会略則トシテ以テ会社弁ヲ読ム者ノ資用ニ供セント

此書敢テ之ヲ史籍ニ考覈セシニ非ス、又之ヲ名師ニ質問セシニ非ス唯随聞随録ノ漫筆タレハ或ハ謬誤アルモ知ルヘカラス

(『立会略則』自序、明治4年6月。『渋沢栄一伝記資料』第3巻 p.248-249)

本人の言葉で、3つの通説が崩れます。

  • 「日本初の株式会社解説書」→ 本人は『会社弁』の副読本と位置づけている
  • 「体系的な会社制度論」→ 本人は「随聞随録ノ漫筆」で誤りがあるかもしれないと書いている
  • 「学術的研究に基づく」→ 本人が「史籍ニ考覈セシニ非ス」と否定している

そして性格も違います。『立会略則』は大蔵省が太政官に頒布を伺い出て裁可を得た官版であり、全府県に頒布され、その後「大蔵省が諸会社の設立を許否するに際し唯一の参考書」となりました。 滋賀県の江州バンクは規則書に「我社ノ如キハ大蔵省立会略則ノ大意ニ拠リ堅確公正ノ法ヲ約シ」と明記しています。

内容も、一般的な会社法の解説ではありません。目次は「通商会社」(主意/制限/方法/社中諸掛人員)と 「為替会社」(通例為替/廻状為替/貸附ケ金仕法/預リ金仕法/通用切手仕法)で構成されており、明治2年に政府が設置した2つの具体的な組織の運営マニュアルでした。

④ 岩崎弥太郎との「決裂」を、渋沢本人が否定している

1880年8月、岩崎弥太郎が向島の酒楼「柏屋」に渋沢を招き、大激論の末に渋沢が席を蹴って去った—— という逸話は非常に有名です。出典は『青淵先生伝初稿』(大正8〜12年の伝記草稿)で、 「口角沫を飛ばせて論駁し、時を移せども互に屈せず、双方共に激して宴席為に白けたれば、先生席を蹴つて去れり」と書かれています。

ところが渋沢本人は、同じ場面を全く違うトーンで語っています。

険悪になつたのではない。双方考へが異ふのだ。各々長ずる処でやらうといふ程度であつた。向ふは私を説得する積であつたらしいのであるが、説得出来なかつたから、ひどいと云つて怒つて居たとか云ふことであつた

(宴席では)二人で舟を出し網打などした……大体論として「合本法がよい」「いや合本法は悪い」と論じ合ひ、はては、結末がつかぬので、私は芸者を伴れて引上げた

(『雨夜譚会談話筆記』上 p.84-86、大正15年10月〜昭和2年11月。『渋沢栄一伝記資料』第8巻 p.17-18)

そもそもその前年の1879年8月1日、東京海上保険会社の開業時に、渋沢と岩崎弥太郎は共に相談役を務めています。 「生涯の宿敵」という単純な図式は成立しません。

⑤ 同時代の渋沢は、聖人ではなく攻撃対象だった

東京風帆船会社の設立時、風刺新聞『団々珍聞』(明治13年8月14日)は「渋紙大穴の繕ひ」と題してこう書きました。

第一国立銀行頭取渋沢栄一氏ハ、米相場ニ洋銀売買ニ百事蹉跌シ、七十有余万円ノ金額ヲ損失シ、落胆狼狽ノ折柄三井銀行ト謀リ…… 大ニ風帆船会社ヲ起シ、一ニハ三菱跋扈ノ勢ヲ折キ、二ニハ其事業ヲ起スヲ名トシテ、巨万ノ金額ヲ四方ニ募リ、自家損失ノ塡草ニモ為サンコトヲ企テタリ

同時期には「第一国立銀行破産に瀕し、渋沢之を患ひて自殺を企てたり」という流言まで載っています。 『伝記資料』の編者はこれらを三菱側による中傷工作の産物と注記していますが、明治期の渋沢が神格化された存在ではなかったことの重要な傍証です。

山路愛山は別の角度からも書いています。「我等の見る所にては渋沢男は決して金持に非ず」—— 仮に日本富豪の分限帳を作れば「男の身上は無論幕の内に上らず、二枚目にすら或はむづかしと思ふ位」だと。 さらに「頼まれては引くに引かれず色々の仕事に関係し」た結果、日糖事件(1909年の日本製糖疑獄)で 「思はぬ迷惑を蒙りたる」と指摘しました。「500社関与」の裏面がこれです。

「日本初の株式会社」は、定義次第で20年ずれる

ここまでの整理を、ひとつの問いに集約できます。日本初の株式会社はどれか。

候補「初」である理由「初」と言い切れない理由
第一国立銀行1873年7月20日株主有限責任を明記した法(国立銀行条例18条12節)に基づく最初の株式組織国立銀行条例という特別法に基づく。一般法上の株式会社ではない。発足時は「其名は株式組織なれども実際に於ては専ら三井小野両組の専有」と評された
三井銀行1876年7月1日日本最初の私立銀行会社形態は私盟会社(組合)であって株式会社ではない
日本郵船1893年12月15日日本で最初の一般的な会社法規である商法に基づいて設立された株式会社旧商法会社編の施行(同年7月1日)から5か月後であり、「輸入の完了」は1899年の新商法とする方が整合的

この20年のズレそのものが、この章が描いた期間です。 「特別法で会社を1個ずつ免許する国」から「一般法で誰でも会社を作れる国」へ—— 『会社弁』の「非常免許」が、新商法の準則主義になるまでに28年かかりました。

断定を避けるべき論点

この章で扱った事柄のうち、学界が明確に割れているものを明示しておきます。読者が別の本を読んだときに混乱しないためです。

論点A説B説状況
「会社」は移植か内発かヒルシュマイアー(1964): 江戸商人は近代企業者たりえず、担い手は武士・農村企業家・政府安岡重明・天野雅敏編『日本経営史1』(1995): 江戸商家に合名・合資の萌芽、事実上の有限責任、内部労働市場が存在未決着。ただし単純な二分法は両陣営とも放棄。島田昌和は渋沢が株式会社・合資・合名・匿名組合を使い分けた事実を挙げて中間説を採る
官業払下げは政商への安売りか小林正彬: 払下げを成功させたのは政府ではなく企業山本弘文: 過渡的で政商的な払下げ。払受人の近代性を過大評価未決着。2022年にも東大で博士論文が出ている
産業革命の起点石井寛治: 1870年代後半(産業上の実質的変化で数える)高村直助: 1880年代後半(会社形態の採否で数える)事実の争いではなく「企業勃興とは何を数えるのか」という定義の争い
松方デフレの評価室山義正: 政策要因寺西重郎: 景気の反転は松方登場(1881年10月)以前に生じており、景気循環過程の性格が強い①維新の徹底/不徹底 ②政策/循環 ③国内/国際 ④中央/地方 の4軸すべて未決着
岩崎 vs 渋沢という対比(同族独占 vs 合本という図式が一般に流通)この対比を正面から扱う査読論文が見つからない。経営史の教科書での渋沢の対比相手はむしろ五代友厚(田付茉莉子1974)

現代への接続

この章の30年で作られたもののうち、何が今も生きているかを整理します。

明治期に作られたもの現代における姿連続性の性質
金禄公債 → 国立銀行(1876)地方銀行網。153行のうち都市銀行に発展50行、地方銀行として存続70行、双方に継承3行、消滅30行直接連続。純粋なナンバー銀行としては十六・七十七・百五・百十四の4行が現存(合併前行名を含めると第四北越・十八親和を加えて6行)
三井元方(1893)→ 三井合名(1909)三井グループ。持株会社という発想は1997年の独禁法改正で復活し、現在の金融持株会社・事業持株会社に至る断絶を挟む連続。1945年の財閥解体で持株会社は解体され、半世紀後に別の文脈で再導入された
三菱合資(1893)の各部制 → 独立採算事業部制(1908)事業部制・カンパニー制。「所有は集中、執行は分権」という組み合わせ組織原理として連続
株主と銀行の「双対的コントロール」メインバンク制。ただし株主側の規律は1920年代に弱まり、戦時統制で決定的に変質する第5章・第7章で追跡する。明治期の姿は現代とかなり違う
学卒定期採用(1891〜)新卒一括採用慣行としては連続するが、制度としての確立は明治期ではない。第4章以降の主題
旧商法会社編(1893)→ 新商法(1899)会社法(2005年制定)。準則主義は現在も維持されている法制として直接連続。1899年の準則主義が現在の「要件を満たせば会社になる」の起点

レイヤーごとに評価すると、この章の答えはこうなります。

  • ① 資本と所有:外部資本市場が新設された。ただしその原資は身分だった。江戸期の「内部留保と信用」に、金禄公債→国立銀行券という国家製の経路が加わりました。株式市場は1878年に公債から始まり、会社の株が主役になるにはさらに時間がかかります
  • ② 組織と統治:家訓が家憲になり、大元方が持株会社になった。機能は江戸から連続していますが、法人格と有限責任という法的な裏付けが付いたことは質的な断絶です。そして所有の閉鎖性は、むしろ強化されました(三菱合資の出資者は2名)
  • ③ 雇用と人事:供給源が内部労働市場から学校へ移った。しかし制度化はまだ来ていない。番頭の一掃と学卒採用は明治期に始まりますが、「日本的雇用慣行」と呼べるものの成立は、早く見ても1910年代以降です

次章では、この器に大量の資本と大量の労働者が流し込まれます。 大阪紡績(1882年設立、1万500錘、昼夜二交代)が示した「資本集約型産業」というモデルが全国に広がり、 三井・三菱・住友・安田は本社(合名・合資)と直系会社からなる持株会社構造を完成させます。 そして工場では、まだ誰も設計していない「工員をどう雇うか」という問題が、暴力的な形で表面化していきます。

理解度チェック

問題 0 / 50%
Q1

明治9年(1876年)の改正国立銀行条例が国立銀行の急増(4行→153行)をもたらした仕組みとして、最も正確な説明はどれですか?

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