効く方法は分かった。では、いくら使っているのか

前章までで、何が効いて何が効かないかは整理できました。 行動モデリング研修は d ≒ 1.0、間隔をあけた検索練習は g = 0.74、 そして上司を巻き込むことが転移の鍵でした。

では、日本企業はそもそも育成にいくら投資しているのか。 この章では厚生労働省「能力開発基本調査」を精読します。 2001年度から毎年実施されている公的統計で、 最新の令和7年度調査は2026年7月31日公表——本稿執筆時点で最も新しい政府データです。

そして後半では、数字の背後にある理論に進みます。なぜ企業は育成投資をしたがらないのか。 これは意識の問題ではなく、労働市場の構造から演繹できる問題です。

調査の読み方 — 3つの落とし穴

数字に入る前に、この統計を読み違えないための前提を確認します。 第1章で予告した「厚労省はOJTを定義していない」問題です。

用語厚労省の定義(原文)落とし穴
計画的なOJT日常の業務に就きながら行われる教育訓練(OJT)のうち、教育訓練に関する計画書を作成するなどして教育担当者、対象者、期間、内容などを具体的に定めて、段階的・継続的に実施する教育訓練「OJT」単独の公式定義は存在しない。日常の「先輩が背中で教える」は統計に含まれない
OFF-JT業務命令に基づき、通常の仕事を一時的に離れて行う教育訓練(研修)業務命令でない自主的な外部セミナー参加はOFF-JTではなく自己啓発に計上される
自己啓発労働者が職業生活を継続するために行う、職業に関する能力を自発的に開発し向上させるための活動(趣味・娯楽・スポーツ健康増進等は含まない日常語の「自己啓発」(マインドセット本の類)とは別物

さらに費用データについて、決定的に重要な注意があります。

日本企業はいくら使っているか

令和7年度調査(企業調査7,452社、有効回答率52.6%。費用データの対象期間は令和6年度=2024年度の1年間)の結果です。

指標令和7年度前回
OFF-JTまたは自己啓発支援に支出した企業54.4%54.9%(-0.5pt)
└ 両方に支出21.5%
└ OFF-JTのみ28.5%
└ 自己啓発支援のみ4.4%
└ いずれにも支出していない45.5%
労働者一人当たりOFF-JT費用2.0万円1.5万円(+0.5万円)
労働者一人当たり自己啓発支援費用0.4万円0.4万円(横ばい)

最も重い数字は 45.5% です。日本企業のおよそ半数は、教育訓練費を1円も支出していません。「人材育成が重要だ」という総論と、この数字の間には大きな距離があります。

制度整備は、むしろ後退している

リスキリング政策が追い風を吹かせているはずの時期に、制度整備の数字は逆を向いています。

制度導入企業割合(令和7年度)前回比
教育訓練休暇制度5.7%-1.8pt
教育訓練短時間勤務制度4.7%-1.5pt
教育訓練所定外労働時間免除制度4.6%-1.5pt

いずれも1桁%で、しかも前回比マイナスです。 「学ぶ時間を制度として確保する」という最も基礎的な仕掛けが、20社に1社程度にしか存在しません。 第7章で見るリスキリング施策の形骸化は、この土壌の上で起きています。

日本型育成の構造 — 入口集中とその後の放置

事業所調査(令和7年度、7,194事業所)から、日本の育成の形が見えてきます。

職層別の教育訓練実施率(%、厚生労働省 令和7年度能力開発基本調査)

読み取れるのは明確なパターンです。計画的OJTの実施対象は、新入社員52.3%から管理職層24.9%へと半減以下になります。日本型育成が「入口に集中投資し、その後は放置」という形をとっていることの、 政府統計上の直接的な証拠です。

第4章で見たとおり、転移を最大化する条件のひとつは「上司の同時訓練」でした。 ところが日本では、その上司にあたる管理職層こそが最も育成対象から外れています。 そして次に見る「最大の課題」と、この構造は綺麗につながります。

制約はカネではない

能力開発・人材育成に何らかの問題があるとする事業所は 80.1%。 内訳(複数回答)が、この章で最も実務的な発見です。

人材育成に関する問題点(%、複数回答、厚生労働省 令和7年度能力開発基本調査)

ボトルネックは「指導する人材の不足」59.5%「時間がない」45.5%であり、「金銭的余裕がない」は14.3%にすぎません。

なお2位の「人材を育成しても辞めてしまう」51.6% は、 この章の後半で扱う人的資本理論と直結します。企業が育成投資を渋る古典的な理由が、 現場の実感としてもはっきり表明されているわけです。

労働者側から見た風景

個人調査(20,127人)の数字も見ておきます。

指標労働者全体正社員正社員以外
OFF-JT受講率37.3%44.5%19.4%
自己啓発実施率35.5%(前回比 -1.3pt)
平均延べOFF-JT受講時間(年)20.5時間22.2時間11.2時間
平均延べ自己啓発実施時間(年)42.7時間43.9時間
自己啓発の平均自己負担費用28.6千円29.6千円21.1千円

OFF-JT受講率は37.3%。3人に2人は、年間を通じて公式な研修を受けていません。 受講時間も「10時間未満が約半分」(5時間未満22.0%+5〜10時間27.1%)で、 正社員以外では5時間未満が45.3%に達します。

自己啓発を行う上での問題点も特徴的です。正社員では 「仕事が忙しくて自己啓発の余裕がない」が58.5%と突出し、 正社員以外では「家事・育児が忙しくて」が34.0%と最も高くなります。 男女別に見ると、男性は「仕事が忙しい」が突出する一方、 女性は「家事・育児が忙しい」が男性の1.5倍前後——育成機会の男女格差が「時間の使い方」を経由して発生していることが読み取れます。

「GDP比0.1%」の原典と、3つの注意点

日本の育成投資を語るとき最も引用される数字が、これです。

企業の人材投資(OJT以外)の対GDP比(%、2010-2014年平均)

出所を正確に書きます。推計者は学習院大学経済学部の宮川努教授で、 内閣府「国民経済計算」・JIPデータベース・INTAN-Invest database を用いたものです。 初出は厚生労働省『平成30年版 労働経済の分析』(2018年9月28日)の第2-(1)-13図で、内閣官房「賃金・人的資本に関するデータ集」(2021年11月)にも再掲されています。

引用するときの注意点が3つあります。

注意点内容
① 定義OJTを除く、OFF-JTの研修費用のみの対GDP比。日本はOJT中心の育成慣行のため、OJTを除外した指標が低く出るのは構造的に当然の面がある。「日本企業が育成しない」証拠ではなく「日本企業がOFF-JTを使わない」証拠
② 鮮度最新区間が2010-2014年で、2026年時点では12年以上前のデータ。これを「現在の日本」として引用する記事が非常に多い
③ トレンドは本物日本は1995-99年の0.41%から2010-14年の0.10%へ4分の1に低下している。この低下はOJTへの代替では説明しにくく、ここが本質的な論点

①の但し書きは重要ですが、それで安心してよいわけではありません。0.41%から0.10%への低下トレンドは、「日本はOJT中心だから」では説明できないからです。 そして本章の前半で見たとおり、そのOJTも管理職層では24.9%しか実施されていません。

なぜ企業は育成投資をしないのか — Beckerの呪い

ここからが、この章の理論的な山場です。 「日本企業は育成に投資しない」という現象を、意識や文化ではなく経済理論から演繹します。

Becker (1964) — 一般的技能と企業特殊技能

Gary Becker の人的資本理論は、技能を2種類に分けます。

  • 一般的技能(general skills):企業・産業を越えて移転可能(プログラミング、語学、会計、プロジェクト管理…)
  • 企業特殊技能(firm-specific skills):訓練が行われた企業内でのみ価値を持つ(社内システム、独自業務プロセス、社内人脈…)

ここから Becker の命題が導かれます。

労働市場が競争的であるとき、企業は一般的訓練に投資しようとしない。 一般的訓練を受けた労働者は、より高い賃金を提示する他社へ移れるからである。 一方、企業特殊訓練には投資する。外部企業に移転できないため、労働者が去っても他社の利益にならない。

そして帰結として、一般的訓練のコストは労働者自身が負担する(訓練期間中の低賃金という形で) というのが Becker モデルの含意です。

この理論は、令和7年度調査で企業が挙げた第2位の課題 「人材を育成しても辞めてしまう」51.6% を、そのまま説明します。

Acemoglu & Pischke — 市場の不完全性が投資を可能にする

しかしBeckerの厳格な予測は現実と合いません。実際には企業は一般的技能に投資しています。 ドイツの徒弟制度が典型例です。この矛盾を解いたのが Acemoglu & Pischke(1998年、1999年)でした。

完全競争下では企業に一般的訓練を資金拠出するインセンティブはない。 しかし労働市場の不完全性——賃金圧縮(wage compression)や情報の非対称性——を導入すると、 この結果は成立しなくなる

賃金圧縮とは、生産性が上がっても賃金がそれに比例して上がらない状態を指します。 この状態では、訓練で生産性が上がった分の一部を企業が回収できるため、投資が合理的になります。情報の非対称性——他社は「その人がどれだけ訓練されたか」を正確には知らない——も同じ方向に働きます。

日本への含意 — 流動化は投資を削ぐ

graph TD
  subgraph OLD["従来の日本型(Acemoglu-Pischke的条件)"]
    A1[長期雇用<br/>低い転職率] --> A2[賃金圧縮<br/>年功的賃金]
    A2 --> A3[訓練投資を<br/>企業が回収できる]
    A3 --> A4[企業が一般的技能<br/>OJTに投資できる]
  end

  subgraph NEW["流動化後(Beckerの世界へ)"]
    B1[転職市場の発達<br/>ジョブ型・中途採用増] --> B2[生産性に応じた賃金<br/>賃金圧縮の解消]
    B2 --> B3[訓練した人材が<br/>他社に移る]
    B3 --> B4[企業の投資<br/>インセンティブ低下]
  end

  A4 -.制度変化.-> B1
  B4 --> C["「育成しても辞めてしまう」51.6%<br/>令和7年度 能力開発基本調査"]

  style A4 fill:#10b981,stroke:#059669,color:#fff
  style B4 fill:#ef4444,stroke:#dc2626,color:#fff
  style C fill:#f97316,stroke:#ea580c,color:#fff
Becker と Acemoglu-Pischke から導かれる構造。日本の長期雇用は企業が育成投資できる条件そのものだった。流動化はその条件を外す方向に働く。

日本の長期雇用・内部労働市場は、まさに「賃金圧縮+低流動性」という Acemoglu-Pischke 的な条件を満たしていました。 つまり日本型雇用は、企業が一般的技能(OJTを含む)に投資できる制度的基盤だったということです。

逆に言えば——転職市場の流動化はBeckerの世界に近づけ、 企業の一般的技能への投資インセンティブを削ぎます

補助線:Cappelli の「スキルギャップ」批判

関連して、Peter Cappelli(Wharton)の議論も置いておきます。 高失業率下でも企業が「必要な人材が見つからない」と主張する現象について、 Cappelli はスキルギャップ論そのものを論駁し、採用できない実際の理由として過剰な要件設定・訓練投資の忌避・賃金の据え置きを挙げました。

つまり「スキルギャップは技能の不足ではなく、企業側の訓練投資の撤退の帰結」という論理です。 Becker → Acemoglu-Pischke の流れと合わせると、 「人材不足」という診断そのものを疑ってかかる視点が得られます。

日本の現在地

この章で確認した数字を、ひとつの像にまとめます。

  • 企業の45.5%は教育訓練費を1円も支出していない
  • 支出した企業でも一人当たりOFF-JT費用は2.0万円(直接費のみ)
  • 計画的OJTは新入社員52.3% → 管理職層24.9%と半減以下。入口集中・その後放置
  • 労働者のOFF-JT受講率は37.3%、受講時間は10時間未満が約半分
  • 制約は指導人材59.5%・時間45.5%であって、カネは14.3%
  • 教育訓練休暇制度の導入は5.7%で前回比マイナス
  • そして理論的には、流動化が進むほど企業の投資インセンティブは下がる

次章では設計の話に移ります。限られた資源を誰に配分するのか—— タレントマネジメントの設計原理を、「人」ではなく「ポジション」から始める発想の転換として読み解きます。

理解度チェック

問題 0 / 50%
Q1

厚生労働省「令和7年度能力開発基本調査」において、OFF-JTにも自己啓発支援にも費用を支出していない企業の割合はどれくらいですか?

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