世界標準になった2つのツールを、原典まで遡る
前章では、効果測定の枠組みが「モデル」ではなかったこと、 満足度アンケートが学習を予測しないことを見ました。この章では、育成の中身そのものに入ります。
人材育成の実務で最も普及した2つのツールがあります。70:20:10(人は経験7割・薫陶2割・研修1割で育つ)と、9ボックス(パフォーマンス×ポテンシャルの3×3グリッド)です。 どちらも研修プログラムの設計思想から人事のタレントレビュー会議まで、日本企業でも広く使われています。
この章では両方の出自を一次資料まで遡ります。結論を先に言えば、70:20:10の数字は原典に存在せず、原著者本人が「folklore(俗説)」と呼んでおり、 9ボックスは元来「人」を評価するために設計されたものではありません。 そしてこの2つには、意外な共通点があります。
70:20:10 — 原典に数字は存在しない
1988年、CCLは何を発見したのか
70:20:10の出典としてほぼ必ず挙げられるのが、この本です。
McCall, M. W., Lombardo, M. M., & Morrison, A. M. (1988).The Lessons of Experience: How Successful Executives Develop on the Job. Lexington Books.
Center for Creative Leadership(CCL)が1980年代に行った研究で、米大企業6社の上級役員191名にインタビューとサーベイを実施し、 キャリアで転機となった出来事と、そこから得た学びを聞き取ったものです。
この研究が特定したのは、3つの主要な発達的出来事と32のレッスンでした。
| カテゴリ | 内容 | 備考 |
|---|---|---|
| Assignments(任務) | ストレッチアサインメント、修羅場的な業務経験 | 最も強く報告された |
| Bosses(上司) | 良い上司・悪い上司から得た学び | 発達的な人間関係 |
| Hardships(修羅場) | 失敗・挫折・危機的状況 | 成功体験だけではない |
結論は「マネジメント能力開発の大半は職務上で起きる。 ストレッチアサインメントと発達的関係が、受けた公式研修よりも重要である」というものでした。 ただし公式研修についても「重要かつ独自の役割を持つが、職務経験の代替にはならない」と明記しています。
興味深い付記として、この研究ではメンタリングは「稀ないし存在しなかった(rare or non-existent)」と報告されています。対象者の急速な昇進と上司の異動により、同一人物と3年以上一緒にいることが少なかったためです。
数字はどこから来たのか — 1996年
70/20/10 という比率が明示的に登場するのは、8年後の実務書です。
Lombardo, M. M., & Eichinger, R. W. (1996).The Career Architect Development Planner. Lominger.
彼らは上記の研究結果をサーベイに定式化し、成功した役員のサンプルに実施しました。 設問は「あなたのキャリアにおける重要な出来事を最低3つ挙げてください—— 今のあなたのマネジメントの仕方に違いをもたらしたもの」というものです。70/20/10は、その回顧的な自己報告に現れたテーマを丸めた表現でした。
著者自身も「there is a good chance…」といった留保付きで、固定ルールではなく示唆的な目安として提示していました。 なお日本では「ロミンガーの法則」と呼ばれますが、これは Lombardo & Eichinger が創業した Lominger 社に由来する呼称で、英語圏では一般的ではありません。
方法論的批判と、原著者の否認
- 生存者バイアス:データはすでに成功した個人の自己報告のみ。 失敗した管理職はサンプルに含まれていません
- 統制群がない・縦断観察がない:「経験7割で育った」と回顧した人と、 同じ経験をして育たなかった人を比較していません
- 数字のきれいさ:70/20/10 と完全に丸まっている時点で、測定値ではなくまとめ表現である疑いが濃厚です
- 理論の不在:Kajewski & Madsen(2012年)"Demystifying 70:20:10" は 「70:20:10を支持する実証データは欠如しており、頻繁に引用される出典があるにもかかわらず、 その起源についても確実性を欠く」と結論し、枠組み自体が atheoretical(理論を欠く) と指摘しました
- Clardy(2018年)は論文タイトルそのものを "70-20-10 and the Dominance of Informal Learning: A Fact in Search of Evidence"(証拠を探している事実)としています
そして決定打がこれです。
元研究の筆頭著者である Morgan McCall 自身が、70-20-10ルールを "folklore"(俗説・民間伝承)と呼んでいる。
最も引用される人材育成の法則が、その研究の当事者から民間伝承と呼ばれている。 これがこのツールの現在地です。
9ボックス — 事業ポートフォリオ管理ツールの転用
起源は「人」ではなく「事業」
9ボックスの3×3構造そのものの起源は、はっきりしています。1970年代初頭、McKinsey が GE のために開発した事業ポートフォリオ評価ツールです。 当時のGEは150を超える事業ユニットを抱えており、投資配分の優先順位づけが目的でした。 軸は「業界の魅力度(industry attractiveness)× 競争上の強さ(competitive strength)」。 BCGの growth-share matrix に触発されたものです。
graph LR
subgraph B["1970年代初頭: 事業ポートフォリオ用"]
B1[縦軸: 業界の魅力度] --> B3[3x3マトリクス<br/>投資 / 維持 / 撤退]
B2[横軸: 競争上の強さ] --> B3
end
B3 -->|HRが構造を借用| H3
subgraph H["人材版 9ボックス"]
H1[縦軸: 現在のパフォーマンス] --> H3[3x3グリッド<br/>Star / Core / At Risk]
H2[横軸: 将来のポテンシャル] --> H3
end
style B3 fill:#f97316,stroke:#ea580c,color:#fff
style H3 fill:#8b5cf6,stroke:#7c3aed,color:#fffHRはこの構造を借用し、競争上の強さ → 現在のパフォーマンス、業界の魅力度 → 将来のポテンシャルに置き換えました。 つまり9ボックスは元来「人」を評価するために設計されたものではなく、 人材への適用に理論的正当化は与えられていないということです。
人材版への転用は誰がいつ行ったのか — 3説併記
正直に書くと、ここは一次情報で確定できませんでした。3説を併記します。
| 説 | 主張 | 確度 |
|---|---|---|
| A. GE-McKinsey転用説 | 1970年代初頭のGE-McKinseyマトリクスをHRが借用し、1990年代以降にWelch下のGEで人材版が定着した | 3×3構造が事業ポートフォリオ用に作られたことはMcKinsey公式が認める。ただし人材版への転用にMcKinseyが関与したという記述は確認できず |
| B. Frito-Lay起源説 | Robert W. Eichinger が Frito-Lay の Steven Wall・Richard Grote とともに、PepsiCoの新しいタレントレビュープロセスに備えるため「グリッド」を開発した。ダラス本社で一日の午後に作られたとされる | 当事者による自己申告(Eichinger自身が関与する組織による記述)。年代の確認も取れていない |
| C. 日本での通説 | 「GEが後継者育成のために開発した」。1999年のGEジャパン発足で日本企業に浸透したとされる | 日本語記事に多いがいずれも二次情報で一次出典なし |
説Bが興味深いのは、設計意図が4点セットで語られている点です—— ①現在のパフォーマンスと将来のポテンシャルの混同を防ぐため2軸を分離する ②「部下は全員ハイポテンシャル」という過大評価を制限する ③訓練を受けていない評価者は確実には3段階しか区別できないという研究に基づく3×3構造 ④各セルに対応した育成・リテンション施策への接続。 そして同じ記述が「50年の普及で当初の意図が失われ、文脈・厳密性・前提なしに適用されるようになった」と批判しています。
共通点 — 両方に同じ名前が出てくる
ポテンシャル軸という難問
原理的に観測データがない
9ボックスの2軸には、性質のまったく違うものが並んでいます。
- パフォーマンス軸:過去の実績。観測可能なデータが存在する
- ポテンシャル軸:まだ起きていないことの予測。原理的に観測データが存在しない
実務での対処は主に2つ——①Learning Agility等の代理指標に置き換える ②キャリブレーション会議で複数評価者の目線を合わせる。それでも次の問題が残ります。
| 残る問題 | 内容 |
|---|---|
| 「扱いやすい人」バイアス | 「言われたことを素直にやる」と「ラーニングアジリティが高い」は行動として似て見えるが、まったく別物。上司から見て扱いやすい人が高く出やすい |
| 接触機会のバイアス | 上司の目に触れる仕事をしている人ほど高く見える。リモート勤務や裏方業務は構造的に不利 |
| 自己成就的予言 | HiPoに選ばれた人にストレッチアサインメントが集中し、結果的に成長する。妥当性が「選んだから当たった」で検証不能になる |
| 単一スナップショット | 1時点の観測はノイズの多いシグナル。対策として12か月分のエビデンスに基づかせる運用が推奨される |
| 業績-在職年数の交絡 | 期待を超える成果ではなく、単にシニアであることで「高業績」と評価される |
Learning Agility — 構成概念妥当性への疑義
ポテンシャル軸の操作定義として広く使われるのが Learning Agility です。 Lombardo & Eichinger(2000年)が5要素 (Mental / People / Change / Results Agility、Self-Awareness)として提示しました。 定義は「経験から学び、その学びを新規かつ初めての状況でのパフォーマンス発揮に適用する意欲と能力」。
これに正面から疑義を呈したのが次の論文です。
DeRue, D. S., Ashford, S. J., & Myers, C. G. (2012). Learning agility: In search of conceptual clarity and theoretical grounding.Industrial and Organizational Psychology, 5(3), 258-279.
- 出発点の指摘が痛烈です。実務家・HRは広く採用したが「アカデミックコミュニティはこの議論からほぼ不在だった」。 結果として概念は "ill defined and poorly measured"(定義が曖昧で測定が拙劣)である
- 尺度への具体的批判:一部の次元が「結果」で定義されている。 例えば People Agility は「他者を建設的に扱う人」と記述されており、これは能力ではなく行動の結果——循環論法です
- 提案:「agility」を情報を同化・適用する認知的速度として狭く再定式化し、 目標志向性・フィードバック探索行動・メタ認知・経験学習理論という確立された構成概念の中に位置づけ直すべき
HiPoの3因子モデルと「高業績者 ≠ ハイポテンシャル」
Corporate Leadership Council(現Gartner)が定式化した HiPo の3因子モデルは、 ポテンシャル議論の中では実務的貢献が明確な部類です。
- Ability(能力):より複雑な役割で効果を発揮するために必要な、生得的特性と学習されたスキルの組み合わせ
- Aspiration(志向):シニア役職に伴う範囲・責任・可視性・プレッシャーの拡大を真に望むこと
- Engagement:組織に留まり、より大きな挑戦を引き受けるコミットメント
3つすべてが揃って初めて真のHiPoという設計です。 このモデルの実務上最大の貢献は、「高業績者 ≠ ハイポテンシャル」という区別を明確にしたことでした。 関連して報告されている数値には、HiPoと判定された社員の次の役職での失敗率が約半数、 ハイポテンシャル人材が関わる社内異動の約40%が失敗、高業績者の約71%は次のレベルで成功するための 重要な属性を欠く、といったものがあります。
9ボックスの妥当性検証は存在するのか
ここは正確に書く必要があります。本シリーズの調査範囲では、9ボックス評定の評定者間信頼性や予測妥当性を検証した査読済み研究を特定できませんでした。
重要なのは、これが「否定された」という意味ではなく「エビデンスが不在」だという点です。 批判の多くはHRメディアやコンサル発の記事であり、学術的な検証そのものが手薄です。 数十年にわたり世界中の企業が昇進・育成投資・後継者選定に使ってきたツールについて、妥当性の学術的検証がほとんど存在しない——この不在自体が、この章で報告すべき事実です。
発明元のGEが、最初に捨てた
この章の締めくくりとして、最も皮肉な事実を置きます。 9ボックス、Session C、強制ランキング(vitality curve、20-70-10)、企業内大学—— 世界中が模倣したこれらの発明元は、すべてGEでした。そのGEが、自ら手放しています。
クロトンビル設立
ニューヨーク州クロトン=オン=ハドソンに Management Development Institute を設置。世界初の企業内大学とされる。CEOのCordinerによる分権化で事業部が100超に増え「成長の最大の制約は経営人材の層の薄さ」という認識に至ったことが背景。
Session C の制度化
Reg Jones がCEOに就任し、各事業の管理職について評価・キャリア予測・後継者計画を生成する年次プロセスを制度化。これによりHR担当者が財務担当者と並ぶ事業責任者のインナーサークルの一員になった。
後継者選定「horse race」
Welchが約6年をかけて後継者を探索し、Immelt・McNerney・Nardelliの3名に絞り込む。2000年11月にImmeltを指名(2001年9月就任)。敗れた2名は即座に他社CEOへ転じた。
年次評価の廃止を発表
約30万人の全従業員について年次評価そのものを廃止し、アプリによる頻繁なフィードバック(PD: Performance Development)へ移行すると発表。移行完了は2016年末。
クロトンビル売却
3分割に伴い、企業内大学の象徴だったクロトンビルを売却。GE側は「学習は工場のフロア、仕事が行われる場所の最も近くへ移す」と説明した。
Welch後継者選定の顛末についても触れておきます。Immelt体制下(2001-2017年)でGEの企業価値は大きく毀損し、 最終的にGEは3社分割へ向かいました。「教科書的な後継者育成プロセスが、 結果として最良の選択をしなかった」事例として繰り返し引用されます。
ただし公平のために付言すると、「Immelt選定は失敗だった」という評価には後知恵が含まれます。 リーマンショックやGEキャピタルといった外部要因の寄与について議論があり、断定は避けるべきです。
むしろ本章の文脈で意味があるのは、評価の基準そのものが問われるという点です。 GEはプロセス(Session C、9ボックス、クロトンビル)としては完璧に見え、 他社に多数のCEOを輩出しました。しかし自社の20年後の企業価値では失敗しています。「輩出したリーダーの数」で測るか「組織の存続」で測るかで、結論が反転する—— 第2章で見た「何を測るか」の問題が、ここでも顔を出します。
次章では、では実証的に何が効くのかへ進みます。 「研修転移率10%」という業界最大の自己否定的な数字の出所を解体し、 効果量が堅い介入——行動モデリング研修、間隔をあけた検索練習、自己効力感——を確認します。
理解度チェック
70:20:10という比率は、1988年のCCL研究『The Lessons of Experience』(上級役員191名)で実証的に導出された数値である。